喜多呂

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  • 同作には寿々喜多呂九平を初め、多くの人々がその斬新な演出に賞賛を送った。
  • 同作公開後に寿々喜多呂九平が名付け親となり、月形龍之介に改名した。
  • 同社の演出部には神脇満こと寿々喜多呂九平が在籍した。
  • 寿々喜多 呂九平は、日本の脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。
  • 本作を試写会で観たまだ無名の寿々喜多呂九平が、東京を離れて京都入りし、牧野の門を叩いた。
  • つづいて寿々喜多呂九平原作・脚本の『蜘蛛』を「悪麗之助」名義で撮る。
  • 当時を知る映画批評家・滝沢一によれば、「悪魔派」と呼ばれ一世を風靡した一連の作品の最初に位置するといい、主演した岡島艶子によれば、本作のあとに「悪魔派」とされる悪麗之助監督、本作と同じ寿々喜多呂九平脚本の『蜘蛛』がつづいたのだという。
  • この時に阪東妻三郎をスターに育て上げ、寿々喜多呂九平や二川文太郎などの若き映画人たちを育成した。
  • スジについて、牧野は「ホンさえよかったら、誰でもいい演出家になれる」と語っているように、脚本を特に重視しており、マキノ映画製作所時代に寿々喜多呂九平や山上伊太郎などの若き脚本家を育てており、彼らには当時の監督よりも高額のギャラをあげていた。
  • 寿々喜多呂九平が書き下ろしたオリジナルシナリオを二川文太郎が監督した。
  • 当時の悪麗之助は、寿々喜多呂九平とならび「悪魔派」と呼ばれる脚本家であったが、本作では、寿々喜多のオリジナルシナリオを悪が監督した。
  • 京都の新興キネマに所属し、1934年10月11日に公開された寿々喜多呂九平監督の『七宝の桂』が、もっとも早い時期の出演記録である。
  • 牧野省三の映画最初期の助手であり、脚本・寿々喜多呂九平、撮影・石野誠三とのトリオがマキノ最盛期の映画製作を支え、マキノの歴史とともにある人物として知られる。
  • 阪東妻三郎第一回主演作品『鮮血の手形』前後篇でも大役をこなすが、本作に阪東を推したのは、脚本の寿々喜多呂九平のみならず、環の推薦も大きかった。
  • 寿々喜多呂九平は「世に無頼漢と称する者、そは天地に愧じぬ正義を理想とする若者にその汚名を着せ、明日を知れぬ流転の人生へと突き落とす、支配勢力・制度の悪ならずや」と字幕を挿入したが、当局の検閲で丸々カットとなっている。
  • 俳優だった衣笠貞之助を監督としてフル稼働し、大部屋俳優阪東妻三郎をスターにし、20代前半の若者たちを脚本家・寿々喜多呂九平、映画監督・二川文太郎、井上金太郎としてデビューさせた。
  • 同年11月30日公開の寿々喜多呂九平脚本、沼田紅緑監督の『小雀峠』では小蝦名で主役を務めた。
  • 設立第1作は岡本綺堂原作の『白虎隊』、寿々喜多呂九平オリジナル脚本による『或る日の仇討』であり、同2作は、同年8月28日、浅草公園六区の大東京を皮切りに全国公開された。
  • 同社は、同年6月にマキノ映画製作所に改組され、同年、寿々喜多呂九平脚本、阪東妻三郎が初主演した剣戟映画『鮮血の手型』前篇・後篇がヒット、阪東は一躍剣戟スターとなる。
  • のちに第二次世界大戦後、脚本を書いた寿々喜多呂九平が、加味鯨児名義で脚本を書き直し、ロクヘイ・ススキタ名義で監督してリメイクした。
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喜多呂 の使われ方