喜多七太夫

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  • なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間に喜多流の創設を認めている。
  • 後年黒田家の能楽は喜多流に替わるが、長政は父と豊臣時代から交流のあった初世の喜多七太夫長能を重用している。
  • 当時は北七太夫と名乗り、二代十太夫当能より「喜多」を名乗ったが、多くは初代も喜多七太夫と記される。
  • 喜多七太夫とは、シテ方喜多流の宗家が名乗る名のひとつ。
  • 他にも館林時代のお抱え役者の登用、さらに貞享3年には喜多流三世・喜多七太夫宗能を追放し、喜多座を解体するという「能界を震撼させる大事件」を起こしている。
  • はじめは猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年に綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。
  • 喜多七太夫の息子・寿見が勝成の機嫌を損ねさせたので、親の七太夫がわざわざ福山までやってきて、「道成寺」を舞って勝成のご機嫌を直した。