和歌山藩
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夜間の外出を厳禁するの必要も生じて来た。
明治三年の和歌山藩の取締令の如く、この必要から起った当然の帰趨であった。
そしてそれはひとり和歌山藩のみではなかった。
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喜田貞吉『エタに対する圧迫の沿革』より引用
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明治三年の和歌山藩の取締令の如く、この必要から起った当然の帰趨であった。
そしてそれはひとり和歌山藩のみではなかった。
ここに至っては彼らは殆ど罪人扱いである。
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喜田貞吉『エタに対する圧迫の沿革』より引用
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家康の死後は駿府町奉行職が廃止されたこともあり、2000石余から、3000石に加増されて安藤直次らと共に当時駿河国駿府藩主であった家康の十男頼宣の家老となった。
後に頼宣が紀伊国和歌山藩に移封されると、これに従い年寄衆を勤めた。
紀州東照宮の建立などでの活躍が見える。
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常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。
母は側室の養珠院である。
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戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。
戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している。
維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。
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幕府直轄領以外の調査方法は各藩に任されたため、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが各藩で異なっていた。
例えば和歌山藩では数え8歳未満、金沢藩では数え15歳未満は含めていなかった。
その結果、除外人口の問題が複雑化した。
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その課程で、明治政府は今後の陸軍兵制をフランス式とすることを決定したが。
和歌山藩についてはテストケースとして適用が除外された。
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和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となった。
第11代藩主の斉順は天明年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。
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現在では余り知られていないが、当時は大和絵最後の大家として高く評価されていた画家である。
紀州和歌山藩の絵師山名広政の子として、江戸麹町で生まれる。
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江戸市中では窮民の暴動が頻発しており、大阪でも米屋が襲われた。
幕府は天領である別子銅山には、四千人の従業員と家族たちが食べる糧米を、西条藩に対しては和歌山藩が合力米二万石を支給してきた。
別子へのそれは年間一万二千石にもなり、住友家には御用銅の代金で清算相殺させていたのだが、全面的に支給をストップせざるを得なかった。
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小堺昭三『明治の怪物経営者たち(2)』より引用
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慶応3年に「小楠公髻塚碑」建てようとして勤皇家の森田節斎に碑文の選を依頼したといわれ、尊皇思想の持ち主であった。
明治元年の紀州藩の藩政改革では、徴士権弁事に任ぜられ、明治4年4月には和歌山藩大参事心得となる。
同年7月の廃藩置県によって知藩事・徳川茂承が解任されたため、兄が大参事として和歌山県の県政を担当した。
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父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し、頼方は次の間に控えていたが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。
なお、葛野藩は和歌山藩の支藩であるため、実際には家臣を和歌山から送って統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていたと言われている。
宝永2年に長兄・綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。
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そのうち跡を継いだのは直之で、江戸幕府に仕えて旗本となった。
また同じく信貞養子で直之の実弟である有宗・氏吉兄弟は、氏行が真田信之に仕えて松代藩の重臣となり、氏吉は紀伊和歌山藩に仕官した。
松代小幡氏は幕末まで存続し明治期に東京へ転出した。
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このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
明治2年の版籍奉還によって和歌山藩知事となり、明治4年の廃藩置県で東京府に移住する。
紀州藩主としての治世は13年1か月であり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回、紀州在国の通算は4年10か月であった。
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また天保9年の人口は阿弥陀寺町分の人口を欠く。
享保13年の数字は、和歌山藩の総人口が元禄12年と同一であり、元禄13年の誤記である可能性が高い。
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大岡家は曾祖父利兵衛の代で苗字帯刀を許された。
和歌山藩に忠勤を励んでいたのだが、天保生れの祖父弥膳の代から、維新後の差別撤廃を天皇の恩として教えたに違いない。
天皇の写真はこの後、家が大向小学校付近、次に松濤へ越しても、常に居間の欄間にあった。
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大岡昇平『幼年』より引用
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記録で確認できる最古の例は大坂冬の陣の時のことであり、当時江戸城の普請が進行中であったことから、普請と軍役の二重負担に配慮して支給されたものと考えられている。
加賀藩には3万両、仙台藩には1万5千両、西国の姫路藩・和歌山藩・佐賀藩には銀200貫目が貸与されたとされている。
その後も火災や水害などを理由としてしばしば拝借金が貸与された。
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代わって、常陸麻生藩分家から重期が養子に迎えられ、嫡子となった。
廃嫡後は徳川綱教により紀伊和歌山藩の家老に取り立てられた。
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明治元年和歌山藩大参事となる。
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宮川右岸の佐八村・大倉村・上野村・神薗村・円座村も田丸領に含まれていた。
紀伊和歌山藩の御附家老は次の4家である。
久野宗成は「元和五年頼宣公国替之節、台徳院様より御附人仰付けられ勢州田丸城仰付けられ候」と田丸城入城の記録がある。
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