名高商

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  • 渡邉校長が辞任した1935年頃から名高商では戦時色が色濃くなっていった。
  • 以上のように名高商では、のちに赤松が「総合大学として偉容を有する」と称賛したほどの、旧制専門学校のレベルを超えた高度な研究が行われていたが、「専門学校は大学と対等の最高学府」とする理念を堅持していた渡邊校長が大学昇格に消極的であったため、大学昇格運動が表面化することはなかった。
  • 生徒組織も戦時体制に即したものに再編され、1940年には学友会が解散し、代わって「報国団」が発足、さらに1941年8月には「学校報国隊」が発足し名高商は完全に戦時体制に取り込まれることになった。
  • 現在は名古屋市立大学川澄キャンパスとして同大学の医学部・附属病院が置かれ、名高商・名経専を記念する「其湛の塔」が残されている。
  • 渡邊は名高商の存続期間の大半を占める24年間にわたって校長を務めたため、名高商のカラーや理念は彼によってかたちづくられることとなった。
  • しかし一方で理系学部主体の名古屋大学が文系学部を完備した新制総合大学への移行をめざし、名高商を統合して経済学部の母体とする構想を進めていたため、最終的に名経専は新制名古屋大学への参加をめざす途を選択した。
  • 特に産業調査室は、1922年教授として着任した赤松要が渡邉校長に提言して設置されたもので、赤松を主任として経営調査、景気循環の実証研究などが行われ、1933年には約40年間にわたり日本の全生産物を網羅した生産指数を発表し、「名高商生産指数」と称された。
  • 略称は「名古屋高商」または「名高商」で、校地の愛称にちなみ「剣陵学園」とも称される。