古海忠之
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名詞
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星野を団長に、古海忠之、松田令輔などが大蔵省満州国派遣団の一員だった。
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のち昭和十七年には、共産党大森ギャング事件に関係して十年を獄中で過した大塚有章も、藤山一雄の紹介で甘粕に庇護され、満映に入社している。「甘粕を単純に〝右翼〟と呼ぶのは当らない」と古海忠之は語る。
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甘粕の弟・二郎をはじめ家族は、大杉事件以前の甘粕は酒飲みではなかった、と語っている。「甘粕は酒好きだったが、女も決して嫌いではなかった」と、公私ともに最後まで親交を続けた古海忠之は語る。
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それでいて、みないつの間にか彼に積極的な好意を持ち、信頼して、古海、武藤に代表されるように最後まで親交を続けることになる。のち満洲国総務庁次長となった古海忠之は昭和七年、大蔵省から満洲国政府へ派遣された時、父から甘粕への紹介状をもらった。だが渡満直後にある会議で甘粕と同席した古海は、いかにも大杉殺しの憲兵らしい冷たい、親しめない印象を受けて、その後五年ほど全く甘粕と交渉を持たなかった。
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甘粕を知る多くの人が、彼の〝人間的魅力〟を認めている。古海忠之は〝男の惚れる男〟と呼び、武藤富男は「甘粕は磁石のように人をひきつける男だった」と書いている。
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日中戦争期に中国国内で戦争犯罪を犯した容疑で、中国共産党により1109名の戦犯容疑者が撫順戦犯管理所と太原戦犯管理所に拘留された。撫順戦犯管理所に収容された者は、旧満州国で終戦を迎えた後、シベリア抑留を経て1950年に中国に移送されており、その中には愛新覚羅溥儀、張景恵、古海忠之などがいる。太原戦犯管理所には、戦争終結後、中国国民党軍に加わり中国共産党軍と戦った者などが収容された。
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もともと古海忠之の影響で野球に関心を持っていた甘粕は、その場で野球のグラウンド、テニス、バレー、バスケットのコート、陸上競技場をつくることを決めた。
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九日、十日と優勢なソ連軍はほぼ全面にわたって侵入し、陣地守備隊は文字通りの死闘ののち、全滅するものが相次いだ。甘粕は古海忠之を訪れて、言った。
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「石原が関東軍参謀副長から舞鶴要塞司令官に左遷された直接の原因は、協和会問題による私との大喧嘩だ」と古海忠之は語る。甘粕にくどかれ、主計処長と兼任という条件で協和会の指導部長を引受けた古海の耳に「協和会は石原の同志的組織だ」という声がしきりにはいった。
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十六日朝、甘粕は国務院に行った。武部長官以下政府幹部の緊急会議の席から古海忠之と、民生部次長であった関屋悌蔵とを呼び出した甘粕は「明晩、満映理事長室でウイスキーの会をやるから来て下さい」と告げて去った。関屋は大園長喜から「甘粕はソ連軍が新京にはいる前に自殺するらしい」と聞かされていたので、甘粕の招待の意味をさとった。
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この協会は終戦まで、矢内原忠雄の大東研究会や北京の大東学舎などへの出資、満洲で発行される雑誌の経営や各種文化団体の運営、満洲の鉱山経営などに当った。会長は甘粕、理事団には古海忠之も名を連ね、専務理事の清野剛は甘粕の受けた功労金を株式に投資して巨利をあげ、大東協会の基金を強固なものにした。清野は高校時代から左翼運動に参加し、弾圧を逃れてウラジオストックや綏芬河周辺を放浪した経験を持っていた。
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東大卒業後、直に大蔵省入省。同期に古海忠之ら。当初東京税務監督局に勤務、ついで横須賀や神戸の税務署長を歴任したのち満州国に転出し、1933年1月より阿片漸減政策に基づき阿片取扱等を監督する専売公署副署長、専売総局副局長を歴任。
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子に元経済企画庁国民生活局長の小金芳弘、義弟に満州国国務院総務庁次長を務めた古海忠之。
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時期に前後の差はあるが、甘粕と親しかった主な人々は、岸信介、古海忠之、武藤富男、半田敏治、皆川豊治、飯沢重一、関屋悌蔵、藤山一雄、星子敏雄などである。星子敏雄は甘粕の末妹・璋子の夫で、昭和八年、この縁談の世話をした甘粕は、遠い満洲へ愛娘を手離すことに難色を示す母に向い、「この話に不服なら、今後一切妹の世話はしない」と、額のたてじわをきかせていい放ち、ウムをいわせずまとめたという。
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甘粕はこれを上機嫌で眺めた後、理事長室ですでに始まっているウイスキー会に加わった。この会に招かれたのは古海忠之、大園長喜、半田敏治、和田日出吉、関屋悌蔵、飯沢重一、福岡謙吉、星子敏雄など、日ごろ甘粕と親しい人々ばかりであった。
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