原田助
全て
名詞
16 の例文
(0.00 秒)
-
パリで、竹鶴は旅行社トーマス・クックの主催する戦場視察団に加わった。パリに行く車中で知り合った同志社大学前総長原田助博士が一緒だった。パリから北東に二時間ほど行くと、ランス市がある。
...
-
翌1994年1月26日の第20回公判でも三澤教授に対する鑑定人尋問が行われたが、この日の公判でも弁護側からの質問に三澤教授は「それは原田助教授がやった」と繰り返すばかりだった。この日の尋問では、三澤教授は鑑定作業や鑑定書作成に全く関与しておらず原田助教授に任せきりにしていたこと、実際に鑑定試料を使って鑑定作業を始めたのは鑑定書を提出した1993年の5月であったことが明らかになった。三澤教授に対するDNA鑑定の委嘱は1991年11月14日に行われたが、そこから鑑定書提出までの経緯は、後に判明したものも含めると以下のようなものであった。
...
-
彼はYMCAの日本語訳を考える際に中国の『史書』にある「青雲の志」から「青年」という呼称を生み出した。また、原田助も1886年に神戸YMCA会長に就いている。
...
-
弁護団は、1塩基単位で正確な計測が求められるにもかかわらずこのような測定技術しか持っていなかったことから、「本鑑定は破綻しているのではないか」と追及した。これに対して原田助教授は、「当時としては、できる限りの技術を使った」としつつも、「今の研究成果からみると、未熟」で、「明らかに先生のおっしゃるとおり」「破綻していると言っても差し支えない」と答えた。その瞬間、傍聴席からはどよめきが上がり、裁判官は驚いた表情を浮かべた。
...
-
しかし、もっぱら宣教する側の大会であり、宣教される側の非欧米人は17人しか参加していない。日本からは、本多庸一、井深梶乃介、原田助、千葉勇五郎の4名が参加。アジアを代表して本多庸一がスピーチをしている。
...
-
-
湯浅治郎、湯浅初子の子供として生まれる。同志社中学に学び、1910年に原田助から洗礼を受ける。
...
-
島崎藤村の詩に1936年に大中が曲を付けた歌曲「椰子の実」は、同年7月に東京放送局のラジオ番組「国民歌謡」で、最初に東海林太郎の歌唱で放送されている。草創期の同志社で主流を成した、熊本バンド出身の原田助が1907年から1919年まで、第7代総長として12年間にわたって在職した時期に、同志社は目ざましい発展を遂げている。原田は欧米を歴訪し諸大学で講演して、1910年にエディンバラ大学および新島の母校のアマースト大学より名誉学位を贈られるなど、欧米における同志社の名声を上げ、1912年には専門学校令により同志社大学および女学校専門学部が設立された。
...
-
明治16年6月26日で、七一雑報の終刊の直前に、牧師をしながら編集長に再び復帰する。明治23年1月、原田助が神戸教会を辞任し、兵庫教会牧師だった村上が神戸を兼任する。明治26年10月、多聞教会の牧師だった村上俊吉、神戸教会の本間重慶、鈴木清の三人が赤心社の共同名義になった。
...
-
ベルリン大学に留学した日本人のうち、安部磯雄、原田助、波多野精一、森鷗外、黒崎幸吉などはハルナックの講義を直接聴講したとされる。後にニューヨーク・ユニオン神学大学院の歴史神学教授となったアーサー・マギファートはドイツ留学中にハルナックから指導を受けている。
...
-
明治18年に私立赤心学校を兼ねた元浦河伝道所を設立した。翌明治19年、アメリカン・ボードのオラメル・ギューリック宣教師と原田助牧師の臨席の元に、元浦河教会を設立した。明治22年には赤心社の人口184名のうち4分の1がキリスト者になっていた。
...
-
明治25年、横井時雄、綱島佳吉、原田助、内村鑑三が編集員になる。内村は「理想的伝道師」と題して5回に及ぶ連載論文を掲載した。
...
-
そのほか、有力教育雑誌『教育時論』は英法派の延期論を支持、『教育報知』『国家教育』は大木喬任の天賦人権論に反発している。thumb|140px|原田助 内村鑑三不敬事件など一連の排撃論に触発されて、キリスト教徒も民法典論争に参戦。
...
-
この時の各学校の協力を契機に1910年4月、男子校10数校が「基督教教育同盟会」を組織し、第1回総会を同志社で開催した。第1回総会座長は原田助である。一方、女子校も1913年10月、全国から20数校が普連土学園に集まり「女子基督教教育会」を組織した。
...
-
日本全国はもとより、中国、日本の植民地だった台湾や朝鮮、旧満洲までも、学友をはじめ各方面へ募金集めに奔走した結果、募金は目標額に達し、また教授組織の充実と教育施設の完備にも指導力を発揮し、1912年、ついに専門学校令に基づき文部省から同志社大学が認可された。原田助社長、普通学校教頭の波多野培根、神学部主任の日野真澄らとともに、水崎は同志社復興運動の中心的役割を果たした。明治の中頃から大正にかけて、京都在住の長野県出身者が信濃会を作り、会員相互の親睦を計り、故郷を離れて京都で学ぶ学生の世話をした。
...
-
その後、石川裕安、星野光多、H・ペドレー、稲垣信、有馬純清らを招いて伝道を行う。また、明治末期より大正時代までに、牧野虎次、海老名弾正、小崎弘道、原田助、島田三郎が訪れて講演を行い、婦人会も丹羽もと子、海老名みやらを招いて講演を行った。
...