千社札
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次郎衛が向かったのは、とある裏店の門口だった。千社札が幾つも貼られている門口の向こうに油障子の長屋が並んでいた。次郎衛は、その一つに入って行った。
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これに類して、純粋に参詣の記念としての千社札は、神社で公式には取り扱っていないことが多い私的な物であり、江戸時代以降、千社札を神社の神域内に貼り付けることが流行し、現在も水屋や鳥居などに貼り付けた名残が見られることがある。しかし、千社札においても神社の許可を得た上で貼り付けなければならない。
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橘流寄席文字家元・橘右近に師事し、1969年に正式な一門継承者として認められ「橘右之吉」の筆名を認可される。神社や寺などで見かけるミニ千社札は右之吉が考案したものである。
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それは天井の千社札ではない、本堂階段の降り口にあたる方角。
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十年かれこれの製作であらう。よくある千社札を四つがけにした大きさの、幅七寸二分縦五寸一分。
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一家の意見がめでたく一致したところで我々は席を立ち、六角堂に向かった。千社札が貼られた大きな門の前は、洛中洛外から集まってきた狸たちで混雑していた。境内に入りかねた狸たちが六角通の向かいにある駐車場や鐘楼に群れている。
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それらから、災厄を避ける身代わり札等がある。千社札のような木札が多く作られ、キーホルダーやストラップとして使う人も多い。使われる木材は、一般的な木材から銘木まで各種使われるが、木目がきれいなものや表面が滑らかなものが好まれる。
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この奇行が反響を呼び、千社札のブームが発生したという。また、千社札の剥がされにくい高さや貼り方などを最初に考案したのも孔平だという。ブームによって各所で千社札のグループが作られ、争うように千社札が貼られるようになったため、寛政11年には町奉行から禁令が出されたが下火になることはなかった。
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また、兼松が16歳の時に髪結床の表障子に描いた絵が吉原通いを続けていた国芳の目に止まり、これが縁で入門したといわれる。しかしそれよりも当時流行していた千社札を得意としており、その意匠考案が優れていたことは、今日遺されている千社札の作品によって知られる。明治維新後はビラ絵を初めて作っている。
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最初はもっぱら祈願のためだったかも知れぬが、こうして季節をえらみ休日を待ち、または好い同行をさそい合わせるようになると、半分は遠足やハイキングに近い。江戸ではもう二百年近くも前から天愚孔平という人がやり出して、千社札ということがはじまった。これなどはただ自分の名をいろいろと小札に印刷して、それをできるだけ多くの堂宮の戸や柱にはってあるくだけで、刷毛のついた継竿などを用意して、手のとどかぬような高いところにはり付けるのを手柄にしていた。
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古めかしい千社札が何枚か剥げ残っているだけである。「あちらに人がいるようですね」 左奥の、僧坊らしき建物を政嗣は指さした。
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最近では手軽に作れるシール形式の千社札が急増しており、宗教的な用途以外にも、名札の代わりにしたり、気合を込めるの意味で『太鼓の達人』のプレイに使用する自作の桴に貼り付けたりと様々な用途が生み出されている。シールによる千社札の普及が、古くからある千社札の伝統や決まりを乱していると批判の対象になっている。
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その陽を全身に浴びて、大柄な男が木戸口に立っていた。木戸の横板には、長屋住人の商い屋号や名前入りの千社札が隙間なく貼り付けられている。尋ね人を探すかのように札に見入っていた男が、ひとが近寄ってくるのを見て木戸の上から目を移した。
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全体的にくすんだ焦茶色で装飾的な彫りはほとんどない。その代わりにとばかりに、柱の上部や梁には新旧の千社札がところせましと貼られている。
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浮世絵と同じ木版画によって摺られる。神社や仏閣に奉納した千社札は天井や壁に貼られてゆき、長い年月が経過して紙の空白部分が腐食すると墨の印刷された部分のみが残る。これを「抜け」という。
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何れも明治15年のものである。また、大正の頃には主に千社札の絵や役者絵を描いていた他、肉筆浮世絵や写真撮影所の背景画なども描いていた。「幕末明治風俗図」の96枚目「質屋」の画中にある六角の行灯がどうしても描けぬと妻きみに語り、間もなく寝付いて筆を持たなくなったといわれる。
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やがて筆でサインするのが面倒になり「鳩谷天愚孔平」と大書した、今日の週刊誌サイズの木版ポスターを大量に刷り、サインの代わりに貼るようになった。この奇行が反響を呼び、千社札のブームが発生したという。また、千社札の剥がされにくい高さや貼り方などを最初に考案したのも孔平だという。
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