千二百余
17 の例文
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この部隊は、インドから国境を越えてビルマに潜入し、チンドウィン河を渡って東進し、マンダレー=ミッチナ間の鉄道沿線の要地をかき乱した。この時の兵力は特殊訓練をうけた歩兵三千二百余名ということであった。ウィンゲート旅団が退去したあとに、密林の間に飛行場が残されてあった。
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郡山十五万千二百余石の松平家について、何かの記憶をよびさまされたのだ。三冬のこたえは、明快であった。
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その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。
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そのために、四谷の弥七その他の人びとへあたえる金にも、つかってきたのである。三百両ほどつかったとき、残りの千二百余両を、駿河屋八兵衛へ預けることにした。
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郷里の古賀を拠点に俳句同人を主宰する傍ら、全国で文芸や作詞の懸賞公募に「梅田 健」や「花田 鶴彦」、その他にも家族や親族の名義や姓名を継ぎ合わせたペンネームを使い分けながら応募し、その賞金を生計の足しにしていたと見られる。渋田自身は生涯に作詞した点数を「ざっと千二百余篇」と振り返っているが、多数の名義が存在するため活動の全容にはなお不明な点が多い。
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「現在の優れた工事技術でも数か月はかかるのに、平地にこれだけの堤防を短期間で仕上げたというのは疑問である」と記しており、完成できた理由として、紀ノ川はよく氾濫しておりもともとあった堤防を利用したという説を紹介している。「築造に投入した人数は、二十六万九千二百余『太田水責記』とも、四十六万九千二百余『紀伊属風土記』ともいうが、延べ人数であるにしても当時の人口を考えれば誇大にすぎるだろう」と工事に投入された人数の多さにも疑問が投げかけている。
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お福は、隠し目付が見届けたという忠長卿の、一連の自暴自棄といえる所業が信じられない。育ちからくる我儘はあっても、妊婦の腹を割いたり、猿を千二百余匹も射殺するなど、度はずれた残虐はできないお人だ、とみている。土井利勝の、浅黒いしもぶくれの面貌がうかぶ。
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そしてそこにいた松村久男氏という若い人に、菅島についての資料のことなどをたずねた。さきに引用した『鳥羽市十年のあゆみ』もここでみたのであるが、松村さんによると菅島は、志摩では答志島に次ぐ第二の島で、面積は四・四平方キロ余、人口は一千二百余とのことだった。
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一方、海軍も九州の第五航空艦隊、厚木航空隊などで徹底抗戦を唱える一部将校もあったが、軍令部首脳の懸命な説得工作で事態を収拾することができた。当時、海軍が本土決戦に備え準備した兵力は、陸戦部隊が七万八千、水中特攻艇四百四十一隻、水上特攻隊三千三十隻、潜水艦三十八隻、航空機五千二百余機であった。これが最後の一戦に敵と刺し違えようと捨身の攻撃に出たら、日本本土は全面的に流血の惨事を引き起こしていたはずである。
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日本軍のビルマ占領によって、ビルマ・ルートの輸送路をうしなった連合軍は、インドの東北部、インパールに近い、シルチャール、シブザガール、ティンスキアなどの飛行場を基地として、インドから中国へ、飛行機で輸送をつづけた。C47を主体とする大型輸送機の大群が、毎日、ティンスキア方面から昆明へ、千二百余キロの空を飛んで、月に二、三万トンの軍需物資を中国大陸に送りこんでいた。しかし、空輸量には限りがあった。
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今は普通に「給仕」と書きますが、本来は「給侍」で、貴人・老人にお上から給わった侍です。そういう訳で、侍とは身分の極めて卑しいもので、大宝令という千二百余年前の法令には、八十歳以上及び篤疾すなわち気違いとか片輪とかの者には、お上から侍一人を給わる。九十歳以上に二人、百歳以上に五人を給わるともあります。
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二人を奥庭の離れ屋へ泊めた。夜ふけて、二人は配下の者たちを西村屋の中へ引き入れ、殺戮と同時に千二百余両を盗み奪り、お小夜を誘拐して逃走した。お小夜を殺さなかったのは、梅之助が、二十も年がちがう従妹に欲情をそそられたからだ。
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種々の統計もありますし、且つ分析表もありまして数時間を費さなければ演説ができない。とにかく、群馬、栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は、鉱山から流れる鉱毒で双方の沿岸の田畑を併せて千二百余町に害を被らしめている。この千二百町余もある大切な耕作地面が、二年も三年も穀物が穫れないのである。
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殊に堤防の切れ先はどこも一面の砂原と変り、神明西などはその傍に大きな泥沼ができて、そのとろりとした水面に秋雲の影を宿していた。後の調べによると、西谷田一カ村の被害だけでも、死亡四名、家畜の斃死千二百余頭、家屋倒壊百五十戸、破損三百五十戸、浸水四百十六戸、田畑の流没二十一町、土砂侵入七十四町、浸水七百九十五町、堤防決潰五カ所、破損二十四カ所、橋の流失十六個という凄じさで、もって沿岸一帯の被害がどれほどのものかを覗うに足りた。九月十八日ついに松方正義に大命が下った。
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六波羅館と呼ばれる邸宅群の範囲は時代により異なるが、伊勢平氏が繁栄を謳歌した最盛期には、北側が平安京の五条大路を東に延長した通り、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。南北はおよそ500メートル、東西はおよそ600メートルで、周囲は塀を巡らせ、内部には伊勢平氏の惣領家の邸宅「泉殿」を中心として「屋敷三千二百余宇」が立ち並び、伊勢平氏の一族郎党が起居していたとされる。平忠盛、平清盛らの居館となった泉殿は、太田静六の研究によると、それ以前の寝殿造に較べて極端に小さいものであったとされる。
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隠し目付が、忠長の最近の狂暴を報告してきたのは、その直後であった。曰く、殺生禁断の駿州浅間山で猿狩りを敢えておこない、猿の親子千二百余匹を射殺された。曰く、小姓や下僕をささいなことでお手討ちなされること十数件。
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