十六万九
17 の例文
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三十六万九千五百匹の河童たちはそのために健気にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。
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三十六万九千五百匹の河童たちはその為に健気にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、その位の損害は何ともありません。
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市内および市外を合わせて、口数十六万九千六百四十四人という。そのうち過半は欧州人なり。
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秀就の方は二十歳の若さながら、防長三十六万九千石の当主である。輝元のほかにこの二人の同意を得ておけば、あとでことがもれても、他の老臣たちを押さえうる。
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アメリカで『百年の孤独』の英訳がでたのは一九七〇年である。ペーパーバック版は翌年の七一年にでて、一九八三年現在すでに八十六万九千部はけている。ハードカバーがどの位売れてるかは知らないが、いずれにせよ、マルケスのアメリカでの人気は根強く、かつ広大なのだ。
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小五郎たちは、長州藩の上屋敷である桜田藩邸内の長屋に居室をあてがわれ、そこから練兵館に通う。桜田藩邸は、一万七千坪の広大な敷地を持ち、三十六万九千石の西国大名らしい格式を誇っていた。日比谷公園堀端に近い藩邸跡付近には、現在東京地裁、法曹会館、法務省などの建物が並んでいる。
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改易八十八家、減封五家の九十三家であった。毛利家は中国九ケ国、百二十万石から長門、周防の二カ国三十六万九千石の外様大名に移封された。吉川広家は毛利家内で岩国の傍流の末家に格付けされ、藩主としての待遇を受けられなくなった。
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蔵六にしてみれば、いかに優遇されても十万石の宇和島藩ではどれほどの働きもできないことを知っている。やはり西南雄藩のひとつとして、ペリー来航いらいにわかに脚光を浴びている三十六万九千石の長州で、活躍の舞台が与えられるものならそのほうに生甲斐を感じるのだ。それに何といっても長州は蔵六の故郷である。
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また終戦の年、昭和二十年には地下工場や疎開工場も建設され、その近郊に分散した小工場は約百ヵ所にあり、中以上の工場だけでも百二ヵ所に上った。その敷地面積が総計千七十六万九千坪、建物床面積約七十万四千坪、機械台数三万七百三十五台、収容人員総数は約二十六万人という世界一の大飛行機メーカーに発展して終戦を迎えた。これに投じた資本は当時の金で約三十六億円、これを現代の金額に換算すると十兆円?
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このあたりは、いうところの〔木場〕と隣り合せだけに、堀川が縦横にめぐってい、夜の闇の中にも木の香がたちこめている。大和町は、長門の国萩三十六万九千石・松平家の広大な下屋敷と堀川をへだてて西側にあたる。その裏道の、亀久町と向い合った細道に面した小さな家へ、佐々木周蔵が入って行くのを、又六は見とどけて来た。
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「現在の優れた工事技術でも数か月はかかるのに、平地にこれだけの堤防を短期間で仕上げたというのは疑問である」と記しており、完成できた理由として、紀ノ川はよく氾濫しておりもともとあった堤防を利用したという説を紹介している。「築造に投入した人数は、二十六万九千二百余『太田水責記』とも、四十六万九千二百余『紀伊属風土記』ともいうが、延べ人数であるにしても当時の人口を考えれば誇大にすぎるだろう」と工事に投入された人数の多さにも疑問が投げかけている。
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「とにかく幕府の決定を聞くのが先決です」 「では、備後助と、もう一人小田村素太郎をやろう」 ということで、その二人が特使として国泰寺へ行くと、壱岐守は待ち構えていたように、長州処分の幕命を読みあげた。その決定というのは、長州藩の石高三十六万九千石から十万石を削り、藩主父子は蟄居、福原・益田・国司の三家老の家は断絶せしむべしというのだった。この三家老は、前の第一次征長のとき、京都出兵の責を負い切腹した三人である。
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関ケ原戦における西軍加担はへたなことこの上もないが、戦後の外交交渉はまことに見事だ。西軍加担の大名らがあるいは斬罪、あるいは封地没収、あるいは封地削減と、それぞれの処罰を受け、毛利家など百二三十万石から三十六万九千石にされるという大削減を受けているのに、一合も減らされていない。西南の僻地にあるので、悪く手間取ると日本全国の乱れになるかも知れないと考えた家康があっさり手を打ったとも考えられるが、家康にやるつもりがあるなら案外たやすくやれたとも言えるのだ。
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安芸、因幡、出雲をはじめ十ヵ国百二十万余石、すべて安堵するとのお約束、大御所さまはにわかに反故にし、わが毛利家をわずか防長三十六万九千石にお削りなされたのではございませんか。
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玄瑞が帰着して間もなく、萩は連日の雨となった。日本海にそそぐ阿武川の支流橋本川と松本川がつくるデルタの上に載せた三十六万九千石の城下町が、さみだれに煙る梅雨の季節である。萩の武家屋敷の土塀は、下半分が玄武岩で組まれたものが多い。
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荒木萬壽夫国家公安委員長と坪川信三建設大臣が積極発言し、佐藤内閣の閣議了承が得られた。目標はとりあえず「都内大学と主要駅周辺の歩道」とし、国道二十六万九千平方メートル、都道八十三万三千平方メートル、区道二十七万九千平方メートルのコンクリート平板敷石をアスファルト舗装に替えることとなった。これをやるには約三十一億円の財源が必要になる。
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