十三世名人
17 の例文
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十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。
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二十歳頃までは実家にいて、真剣師をしていたらしい。後の十三世名人関根金次郎に一ひねりされ、将棋の勉強を始める。プロ棋士となる。
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若手時代、関根金次郎十三世名人と対局する機会を得るも敗れた。
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同年に死去した小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。
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しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の首領を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が報知新聞社主催で行われた。これを縁として、1924年には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
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一方で時代は真の実力第一人者を求める世論も勃興しており、東京日々新聞の学芸部長阿部真之助は、囲碁と将棋の名人位を決める選手権戦を行い、東京日々新聞と大阪毎日新聞が主催することを1934年に企画した。将棋においては十三世名人関根金次郎が1937年に引退するとし、1935年から日本将棋連盟による名人戦を創設して成功を見る。囲碁界では本因坊秀哉が、これを「本因坊戦」として本因坊家の名跡の継承者を決定するという意向を出した。
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十二世名人の小野五平が死去した1921年に名人に推されたが辞退。同年、弟弟子の関根金次郎が十三世名人になった。
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以下、棋士の段位は当時のものである。関根金次郎十三世名人が自ら名人位を返上するとし、1935年に初の実力制名人が始まったが、神田辰之助七段の参加権を巡る対立で連盟が分裂。この事件は翌年には仲裁により解決し、将棋大成会として再統合し、1947年には再び日本将棋連盟の名称になった。
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これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人である木村義雄は、関根金次郎十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞に変更となったのを機に制定された。
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以降、関根・坂田戦は11戦して坂田が七勝して、坂田は八段に進む。大正八年、名人位の継承問題が起こるが「坂田は知性・教養が不足」とした東京棋界は、関根八段に十三世名人と継がせようとする。坂田の後援者の宮田が、東京に交渉に向かった。
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なお、一般棋戦でも特殊な称号が獲得できることもあるが、これらは段位の代わりではなく、その棋戦の中でのみ使われるものであるため、タイトルとは区別される。江戸時代から名人は家元制の終身名人として続いていたが、1935年、十三世名人の関根金次郎が1937年をもって名人位を退位することを宣言し、実力名人制に改められた。第1期名人戦は「名人決定大棋戦」と呼ばれた八段リーグ戦で2年にわたって行われ、1937年に木村義雄が初代名人となった。
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タイトル名の「棋聖」は、本来は将棋・囲碁に抜群の才能を示す者への尊称であった。将棋では、特に、江戸時代末期に現れた、不世出の天才棋士・天野宗歩を指すことが多く、天野には十三世名人の関根金次郎によって棋聖の称号が贈られている。また、護国寺には、小菅剣之助・関根金次郎らによって八代伊藤宗印を記念する「棋聖宗印之碑」が建立されている。
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実子に伊藤印嘉。弟子に小菅剣之助名誉名人、関根金次郎十三世名人がいる。江戸幕府が衰退していくにつれて、家元三家に対する支援も次第に減少していった。
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なお、大山は1973年の王将失冠後、長年に渡るタイトル保持者としての功績により、特例的に現役で永世王将を名乗っていた。坂田三吉は、関根金次郎十三世名人と激戦を繰り返したことで知られ、『王将』というタイトルで数多くの舞台や映画、歌のモデルになったが、没後の昭和30年に日本将棋連盟により「名人位」とともに「王将位」を追贈されている。王将戦は、将棋史における代表的なエピソードが生まれている棋戦でもある。
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土居は「将棋同盟社」に残存し、同年11月4日に八段への推薦を得ることが出来た。大正10年5月8日に関根が十三世名人を襲位するが、54歳の関根は既に指し盛りを過ぎており、実質は土居が実力トップであった。この時期を「土居時代」と称することもある。
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関根金次郎十三世名人門下。