凋落期
12 の例文
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子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。
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ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは第一次世界大戦の頃に現在常識となっている区分けの中世前期、中世盛期、中世後期を紹介した。中世の凋落期で中世後期の悲観的な視点を主に一般化するのに与ったオランダの同僚ヨハン・ホイジンガのものである。研究対象をイタリアよりはフランスやネーデルラントに焦点を当てたホイジンガには絶望と衰微が主題であって、再生ではなかった。
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京都落語界の重鎮で、初代桂枝太郎の主催する京桂派では「一五会」という勉強会を提唱し、若手育成に努めた。その後上方落語の凋落期を迎え活動場所がなくなり神戸の端席や中国に巡業をするようになる。
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また、上方に伝わるケレン芸も得意で『鯉つかみ』『乳房榎』『葛篭抜けの五右衛門』、『義経千本桜』の知盛・権太・狐忠信の三役などを演じていたが、これらの所作と技巧は後の「猿之助歌舞伎」によって受け継がれることになった。実力がありながら、上方歌舞伎の凋落期にあり、さらには東京歌舞伎との不協和もあって相応の評価が得られないまま死去してしまった。晩年は病気がちで舞台に立つことも少なく、たまに出ても声がかすれたり台詞を忘れて絶句するなど不遇な状態であった。
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ひとり菊亭晴季だけではない。遠く、藤原氏の凋落期を境として、武門独裁の世となってからは、朝臣の策士はみな似たり寄ったりな者だった。それらのうちでも、菊亭晴季は、武門の棟梁と取引するにしても、なかなか人を喰ったところがあり、徒らに、安目は売らず、充分、朝廷のためにも、私腹のためにも、利を収めて、しかも威厳を損なわないという線の太い特質があったというだけの人材だった。
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紋章・兜飾り等の正確さについては疑問があり、むしろ理想の宮廷生活が描かれているといえるが、細密画は数多く模写複写されて広まっている。写本に遺された作品の作者は、多くが100年以上前に活躍した詩人であるが、写本制作時に近い時代に活躍した詩人もおり、ミンネザングの最初期から凋落期までを包括する、優に150年超にわたる詩歌作品の集成がこの写本である。
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そしてそこに至れば、われわれはデイヴィッド・ヒュームという忘れられた巨人に出会うのである。そして興隆期のイギリスがいかにヒュームの思想に近づいたか、そして今や凋落期のイギリスが、いかにヒュームから「遙けくもきつるものかな」といった状態になっているかを見て、深い感慨にふけることであろう。現代は「不確実性の時代」だと言われる。
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興行側の松竹でも同じことが見られた。白井松次郎の死後、弟の白井信太郎に経営が移るが、すでに凋落期にある関西歌舞伎を立てなおすにはあまりにも力量不足だった。また、戦後大阪の経済が衰退しそれまで歌舞伎を贔屓していた後援者が東京に相次いで移ってしまった。
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大正に入ると、上方落語は凋落期に入った。当時の落語家は所属事務所から漫才師への転身をすすめられる事例が多かった。
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本名は林 長三郎。偉大な父の陰に隠れ、そのうえ陽のあたる場所は弟に歩かせるほど謙虚な性格で、また時代が上方歌舞伎の凋落期にもあたっていたこともあり、その名が大看板となることはついになかったが、『伊勢音頭恋寝刃』の万次郎、『恋飛脚大和往来』の忠兵衛などの若衆をつとめるときは、古風な好い味を見せていた。また立役もこなし脇を固めた。
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筑後宇都宮氏は、宇都宮貞久にはじまり、貞久は、藤原氏北家の藤原道兼の流れを汲む宇都宮氏の一族であり、宇都宮氏第8代の宇都宮貞綱の弟で筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした宇都宮泰宗の次男の宇都宮貞泰の三男で、九州南朝の拠点の肥後国八代にいた。貞久の子であり久憲の父になる宇都宮懐久は筑後川の戦いで討死しており、また祖父の貞久なき後の南朝凋落期に久憲は筑後に土着すべく、蒲池氏の名跡と遺領を継ぎ蒲池久憲と名のった。久憲にはじまる「藤原氏族宇都宮党の蒲池氏」は時代区分から「後蒲池」というが、筑後宇都宮氏でもある蒲池氏が、伊予宇都宮氏の同族とされたり、豊前宇都宮氏の分流とされるのは、伊予国から豊前国に移った宇都宮貞泰の足跡に関係していよう。
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