公家や寺社

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  • 商人たちはいつ滅ぼされるか分からない武家よりも、座の本所である公家や寺社を信用している。 安部龍太郎『戦国秘譚 神々に告ぐ(下)』より引用
  • そのために戦国大名と大きな取り引きをする時には、公家や寺社に証人に立ってもらうということが一般的に行われていた。 安部龍太郎『戦国秘譚 神々に告ぐ(下)』より引用
  • だが、本来は京都市民の代表であった町人身分の町代が次第に町奉行所において地位を固めるようになると、京都の司法・行政に大きな影響力を与えた公家や寺社などとも関係を結んでいくようになってきた。
  • 紙座は本来は紙を生産して公家や寺社に納入することで奉仕する供御人・神人などの集団であったが、後に本所の保護を受けて一般の生産・流通にも関与するようになったのである。
  • 二人目の妻についても、公家や寺社と長慶が交流する過程で交わされた書状に名前が見えず、早くに病没したか、遊佐長教が暗殺された後実家に帰ったのではないかと推定される。
  • その総数は1200点余りで、主に京都の公家や寺社由来のまとまった文書群が多く、中には原本も含まれている。
  • 公家や寺社、諸藩の家臣の所領にも存在するが、最も代表的なのは江戸幕府が旗本の支配を確実にする事と彼らの江戸居住を義務付けたために、小禄旗本の知行地が集中した関東地方に多く見られる。
  • 公家や寺社もまた公儀から所領を与えられており、町人は農民の石高に代わる各種の役負担が命じられていたからである。
  • 地域内部における訴訟や幕府と関係の薄い公家や寺社、荘園を巡る訴訟でも和与状は作成された。
  • 知行国主が国司推薦権を持つとされているものの、実際にその権利を行使しえたのは院や摂関家などの朝廷の決定を左右できる限られた家に限られ、その他の公家や寺社には備わっていなかったと考えられている。
  • そして、鎌倉幕府の滅亡によって旧幕府方に付いて没収された跡が、建武政権によって非御家人である公家や寺社などに与えられるようになると、御家人役そのものの解体が進められ、その後に成立した室町幕府も鎌倉幕府のような御家人制度を復活させることはなかったのである。
  • 領主化を推進する守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領された。
  • 座は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護した。
  • 寛文4年には1万石以上の大名に対する領知朱印状を、翌寛文5年には公家や寺社を対象とした領知目録を交付している。
  • 室町幕府が成立すると、守護領国制が確立されていく過程で公家や寺社などの荘園領主は守護の軍事力に依拠しなければ年貢・公事の徴収が困難となり、反対に守護はその立場を利用して国内の荘園・公領に段銭などの形で独自の公事を賦課することで領国支配の強化と財政基盤の構築を図るようになった。
  • これを憂慮した後西天皇・霊元天皇は、京都の公家や寺社に要請して和歌・物語・日記・記録・有職故実・公事関連書・社寺文書類などの精度の高い写本を作成し、更に貴重な典籍を謄写して副本を作成して別の場所に置くことによって亡失を防ごうとした。
  • このような公家や寺社と武家との対立を避けようとした直義と、武家の勢力伸張を第一と考えた師直が、幕政の主導権をめぐって対立し始めると、師直派の中心人物と見なされる。
  • 妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。
  • 鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち皇室・公家や寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。
  • それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。
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