八幡船
49 の例文
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岸ちかくに、厨子丸の眼には城ほどに見える巨大な八幡船が浮かんでいた。
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四国や瀬戸内海諸島の士民は、足利時代の当初から壱岐、対馬、九州の北部を根拠として、支那や朝鮮の沿海で、半貿易半海賊の活躍を始めたのであるが、倭寇と呼ばれる頃には、かなり大がかりなものとなつたのである。倭寇と云ふのは、支那人が付けた名で、日本人自身は八幡船と云つた。八幡大菩薩の船旗を掲げたからである。
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八幡船の倭寇に主人か親かを殺されて、その復讐のために遠く渡って来たのか。あるいは大切の宝物を奪い取られて、それを取り返すために尋ね迷っているのか。
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国というのは和歌山県の南端のKという船着場から、五里ほど西へ寄った海岸にある俗に岩屋島という、ろくろく人も住んでいない荒れ果てた小島で、これがかつては初代さんが住み、現にあの怪しい双生児の監禁されている孤島なのだ。伝説によれば、そこは昔、八幡船の海賊どもの根拠地であったそうだ。僕が、暗号文が財宝の隠し場所を示すものではないかと疑ったのも、そういう伝説があるからだよ。
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また、後期倭寇に多く見られた中国南部出身者は日本や東南アジアに多数渡り、現地で華僑のコミュニティを形成し、現在も政治や経済において影響力を及ぼしている。日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡船」と呼ばれた。倭寇が「八幡大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
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ギラギラするような蒼空をつき刺さんばかりに高い、柱といっていいほどの太い棒である。事実、旗は呂宋丸にあったのを持って来たものだが、棒は、これからまた新しく造る予定であった八幡船の帆柱用のものであった。呂宋助左衛門の屋敷は堺の東南隅にあるが、その屋敷のまた東南隅にこれが立てられ、西から吹いて来る海風に音たててはためいていた。
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尾張の中村附近にも、そういうことをよく語る年老が、二、三人はいた。村の人のいうには、 「彼の衆はみな若い頃には、八幡船とかいう船に乗って、明国から南蛮へまで押し渡ったものじゃそうな」 とのことであった。秀吉がまだ子どもの頃だった天文年間には、もう和寇はだいぶ下火になっていた。
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その船ぞこに、生ける屍のように、うつぶしているのは、武田伊那丸のいたましい姿だった。八幡船が遠州灘へかかった時から、伊那丸の意識はなかった。この海賊船が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が迫りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
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この船の頭領は、龍巻の九郎右衛門。もと東海の龍王といわれた八幡船十八艘のお頭領さまだ。
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ここであらためて注釈を加えるまでもなく、鎌倉時代の末期から我が四国西国の人民は一種の海賊組を組織して、しばしば朝鮮や明国の海岸をおびやかした。かの八幡船といい、胡蝶軍と呼ばるるのが即ちそれである。明国でも多年その侵略になやまされて、幾たびか我が国に使者をつかわして其の取締り方を頼んで来たが、乱れた世にはとても完全な鎮撫の行き届こう筈もないので、倭寇の禍いは明国の沿海地方で年々くり返された。
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その方どもの時代になっては、八幡船もすでに末期、和寇という名ばかり残って、恐らくその魂は失われていたろう。
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八幡船は、南蛮各処の日本人町に送るために、瀬戸内海の島から、娘を拉致して行くのか。十余年を経て、拉致する側にまわされた武蔵は、運命の皮肉をおぼえずにはいられなかった。
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「地獄丸」というその八幡船が、田辺湾内から、出帆したのは、それから四日後であった。「この船は、南海路を通って、土佐の浦戸と薩摩の坊津に寄港して、種子島から、まっすぐに南下するのじゃが、こんどは、ひとつ、ひさしぶりに、中国海路を通ってみるかのう」 船長鬼左衛門は、舳先に立って、そう云った。
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同じように、かえし文を、鷲の片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらに呪いの悪魔が悠々とかげを見せてきた。八幡船の親船がかえってきたのだ。
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初めのうち、ザヴィエルがそばにおりました間は、真面目な顔をしておりましたけれども、間もなく彼はグレ出したのであります。後になりますと、例の八幡船という、半分は海賊みたいな、半分は貿易をやるような船に乗りこみまして、シナへ這入りこんでいってニンポーという所でシナ人に殺されたという記録が残っております。こんな人間でありますだけに、この弥次郎という男は非常に礼儀正しいのです。
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これも、八幡船の任務のひとつと心得てもらおう。
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南蛮船か八幡船かしらんが、とにかくそんげん顔ばしとった。