八官町
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名詞
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上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通り銀座通りにある。新しい美術品の展覧場「吾楽」というものが建築されたのは八官町の通りである。雑誌『三田文学』を発売する書肆は築地の本願寺に近い処にある。
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それから自分の机から硯をひきよせ、誰かが揮毫の依頼においていったものらしい画箋紙を切って「読意如読書」と筆を揮い、 「田中君に見せてくれ給え」と高橋へ手渡した。高橋は八官町の正造の宿に寄って、榎本の書を見せ、榎本の言葉を伝えた。袴の膝に手をおいて聴くうちに、正造の目は異様なひかりを帯びてきた。
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同行の毎日の記者も大あくびして起きあがったので、正造たちも握り飯をだして齧りだした。その夜、船が深川の高橋に着いたのが九時、辻待の俥を雇って八官町へもどって来たのは十一時すぎであった。しかし正造は翌日から言葉をただちに実行に移して、同志や同情者の獲得運動に出歩いた。
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正造は釣ランプの下へきて立ったまま電報に目を注いだ。芝口の鉱毒事務所と八官町からと、いずれも予防命令の決定を知らせるものであったが、文面が簡単で内容のところは不明だった。「ふーん」正造は唸って突立ったまま、しばらくランプの焔を見つめていたが「そうか、やはりそうだったか」と呟きつつ崩れるようにその場に坐って腕組みした。
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「お送りいたそう、お屋敷の前まで」 「いえ、もうどうぞ」 と、花世はいたく迷惑そうに、 「今もお話しいたしましたように、父には内緒でございますから」 「言いようのないご無礼をして、このままでは心苦しい、お詫びのつもりで」 と、構わずいっしょに歩きだした。橋を渡って、八官町の旗本町まで来ると、花世は礼をのべて、とある門の袖潜りを静かに開けて、中へ姿を消してしまった。そこはたしかに、大番組御書院方、富武五百之進の邸にちがいない。
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協同親和会の人々が大隈邸を訪問したその朝、正造は並木のあおあおと茂った上に江木写真館の塔の見える八官町へきて宮下方で車を下りた。離れの座敷で待っていると、やがて高橋が報告に立ち寄った。
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こうなっては、杖を奪われためくら同様で、引返すよりほかはあるまいが、その引返しでさえ、うまく行くかどうか。しかし、それは案ずるほどの事はなかったと見えて、この四人の一行は、それから間もなく、無事に江戸城外へ抜け出してしまって、八官町の大輪田という鰻屋へ来ていっぱいやっているところを見ると、七兵衛が推察通り、薩摩屋敷の注意人物に相違ない。この時は、無論、忍びの装束なぞはどこへかかなぐり捨てて、いずれも素面で、いっぱいやっているところは、何のことはない、丸橋忠弥を四人並べたようなものです。
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日本人なら突ッ通すか刳るか、この二つのうちだが、傷口を見ると、遠くからでも匕首を打込んだような、しゃくッたようなようすになっている。殺された当人がはッきりと陳東海だと言ったのだから、これ程確かなことはないわけで、その日の夜遅く、同じく唐通詞で八官町に住んでいる林明斎の宅へ立廻ったところを難なく捕縛された。陳東海は、宝暦の初めごろから唐船の財副になって交易のため幾度となく長崎に来、宝暦十一年から明和二年迄の四年の間、長崎の唐人屋敷に住んでいた。
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こんな話をしていると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の声が、其頃は何となく耳新しく聞きなされた。考証癖の強い翁は鐘の音をきくと、震災前まで八官町に在った小林時計店の鐘の音が、明治のはじめには新橋八景の中にも数えられていた事などを語り出す。わたくしは明治四十四五年の頃には毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら、かの大時計の音に耳を澄した事などを思出すのであった。
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二十六日、正造は議会に鉱毒質問書を提出する件について、中島裕八、荒井啓五郎、木暮武太夫、堀越寛介、藤田吉亨郎等に参集を乞うて、京橋の伊勢勘楼で打合せするところがあった。かくて東京の運動もようやく具体的になり、事務所の必要に迫られてきたので、正造はその宿舎である京橋区八官町二六番地宮下英輔方の離れ座敷を借りて、鉱毒被害県下選出代議士の集会所とした。伊藤草一、加藤兼吉などの青年が事務を担当した。
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ともに紹介されている「安針」は、ヤン・ヨーステンとともにリーフデ号乗組員であったウィリアム・アダムスで、屋敷地が安針町になったとされる。八官町の語源とされる「八官」については、中国人とする説、ヤン・ヨーステンと同様にオランダ人とする説、朝鮮人キリシタンの常珍八官と結び付ける説など、現代も諸説がある。以後、江戸中期に成立した地誌『江戸砂子』、江戸時代後期に幕府が編纂した『御府内備考』などでも、この河岸の名が外国人の名に由来するという記述が継承されている。
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盗賊でも、刺客でもない、彼は一種の英雄として見るべし、という讃。左様な議論で火花を散らして、さんざんに飲み且つ食い、この四人は八官町の大輪田を辞し、大手を振って、例の四国町の薩摩屋敷に入ったのは、夜の白々と明けそめた時分でありました。
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池上本門寺の門前を曲って目黒に向う。麻布から飯倉、愛宕下から虎ノ御門外を新橋、八官町、京橋を渡ると右に折れ、弾正橋を渡ると長沢町は目前だった。その長沢町の裏通り、二筋目の袋小路の突当りが、江戸組を束ねる堀部弥兵衛の寓居であった。
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酔歩蹣跚八官町の川島に至りて又飲む。夜に入りて雨蕭々たり。
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一々門番の検問を受けて通るのが繁雑で、物の用に立たない。色部は止むなく浜岡庄太夫に命じて、日本橋南、土橋に近い八官町の人入れ稼業、大黒屋佐平方を借受け、諜報寄場とした。色部は、毎日、大黒屋方に出向き、内蔵助らの動静を聞く。
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