八切止夫
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名詞
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作家の八切止夫は村八分の語源を村八部にあると唱えている。村八分の措置がなされ、入会地の使用が停止されると、薪炭や肥料の入手に窮する他、入会地に属する水源の利用ができなくなるなど、事実上村落社会における生活ができなくなった。
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日本原住民論八切止夫は、これまでの歴史の常識を覆す様々な説を唱えていた。「日本原住民論」もその一つで、端的にいえば「大和朝廷は外来政権であり、それ以前に存在していた先住民族の末裔が部落民やサンカである」というものであった。
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死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている。小説家八切止夫は、乳母の春日局が家光の生母ではないかという説を立てた。紅葉山文庫にあった「松のさかえ」という史料が、明治44年に国書刊行会により活字本として刊行された。
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編者の松島榮一は、『史疑』について「口碑・伝説と限られた史料とを使っての提言には、論証の不十分さが目立ってはいるが、いずれにせよ疑問を率直に表現することから、学問的考え方がすすむものである」と評している。八切止夫は1970年に長編小説『徳川家康は二人いた』を発表した。
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特に八切止夫史観に着目した部分は、太田竜に古史古伝などのオカルトに関心を持たせるきっかけを与え、後年、太田竜が陰謀論者として名を馳せることになるなど、多大な影響を及ぼすことになった。ちなみにこの手記のコピーは第三者を経由して八切止夫の所にも送り届けられた。
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その本は自説の借地史観にかなりのページを割いたもので、評判はよくなかったが、これが韓国に逆輸入されて話題になった。一世を風靡した鹿島曻の借地史観も、初期の頃は八切止夫の亜流の域を出ないものであった。八切止夫のネタ元は戦前の「スメル学会」であり、さらに詳細に歴史をみると借地史観という形での歴史解釈の元祖は木村鷹太郎のようである。
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上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在するが、女性説もその俗説のひとつで、当項目では八切説以外あるいはそれに触発された創作作品等も紹介する。歴史小説家である八切止夫は、スペイン内戦時には城砦として使用されていたトレドの修道院から、15世紀から16世紀の舟乗りや宣教師による日本についての報告書を発見した。その中にあった、ゴンザレスという船乗りが国王に提出した、1571年から1580年にかけての佐渡金山に関する報告書に上杉景勝の叔母という言葉を見つけた。
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また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。
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日本大学芸術科講師、明治大学助教授を経て、昭和39年に発表した短編『寸法武者』が第3回小説現代新人賞を受賞し文筆生活に入る。奇矯な性格から晩年は出版界から敬遠され、みずから日本シェル出版という出版社を設立して『八切止夫自由全集』を刊行した。同社の本の奥付には「本は読んでもらうためであり金ではない」とあり、送料さえ払えば5万円分の歴史関連の著書を贈呈すると書かれていた。
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そもそもマルクス本人からして、帝国主義国家である「大英帝国」の庇護の下、その生涯を全うしたような男である。八切止夫が掲げた「日本原住民論」を通じて、下記に記される日本に征服されてきた人々の歴史を明らかにし、彼らの憎悪と呪詛を掘り起こせと説く。日本人は戦前は武力でアジアを植民地支配し、戦後は経済で第三世界を搾取している「加害者」であり、「犯罪民族」である。
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野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説の口火を切った。
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呉座もまた、明智憲三郎の議論について、全体として「到底従えない」ものであると結論づけている。その上、そもそも、古くは歴史小説家の八切止夫らが、家康の存在に着目しているため、明智憲三郎自身の主張に反してその説は新説とは言い難い。信長が光秀に家康殺害を命じていたのではないかという議論も、すでに藤田達生が明智憲三郎以前に検討している。
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上杉謙信女性説は、昭和43年に小説家八切止夫が提唱した越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったのではないかとする仮説である。上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在するが、女性説もその俗説のひとつで、当項目では八切説以外あるいはそれに触発された創作作品等も紹介する。
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一世を風靡した鹿島曻の借地史観も、初期の頃は八切止夫の亜流の域を出ないものであった。八切止夫のネタ元は戦前の「スメル学会」であり、さらに詳細に歴史をみると借地史観という形での歴史解釈の元祖は木村鷹太郎のようである。
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指名手配者による手記という特異性もさることながら、当時の新左翼に蔓延した反日思想の理論形成に寄与し、その年の12月には東アジア反日武装戦線がつくられることになる。特に八切止夫史観に着目した部分は、太田竜に古史古伝などのオカルトに関心を持たせるきっかけを与え、後年、太田竜が陰謀論者として名を馳せることになるなど、多大な影響を及ぼすことになった。ちなみにこの手記のコピーは第三者を経由して八切止夫の所にも送り届けられた。
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