傾城阿波の鳴門
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昭和六年発表の『風琴と魚の町』に詳しい。七〇 徳島十郎兵衛 近松半二作の浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』中の人物。十郎兵衛の妻はお弓。
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大坂の人形遣い吉田徳造の次男で1839年に2代目吉田辰五郎の門下で吉田亀吉の名で稲荷社内東芝居で初舞台。翌年1840年に大坂座摩西の芝居の「傾城阿波の鳴門」のおつるを遣って評判を呼ぶ。
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大阪・南の宗右衛門町の生まれ、生家が四代目嵐璃寛の贔屓だったが破産、そこで明治8年10月、四代目が養子として引き取る。翌年の道頓堀中座『傾城阿波の鳴門』で巡礼お鶴で嵐秀二郎と名乗り初舞台。明治14年養父と上京、9月の市村座で二代目嵐和三郎を襲名。
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近松半二の人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」に出てくる阿波の十郎兵衛のモデルとなった人物。徳川家綱の時代に他国米輸入の監視役を務めていた。
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「巡礼歌の段」中で巡礼娘お鶴が語る「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」の台詞が知られる。傾城阿波の鳴門とも書かれる。
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のたりとした波音だけがあって、相当遠くはなれても、富士子の浄瑠璃「傾城阿波の鳴門・巡礼唄の段」は聴こえていた。
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近松・義太夫が現れてからの浄瑠璃はそれ以前とはほとんど内容を一新させてしまうほどでだったので、それ以前を古浄瑠璃、それ以降を新浄瑠璃と呼んで区別している。近松はまた、上方歌舞伎の名優坂田藤十郎のために『傾城阿波の鳴門』などの名編を作劇しており、真に浄瑠璃脚本に専心したのは元禄16年の『曾根崎心中』が最初であった。近松は、歴史のなかの英雄の姿を描くいっぽう、現実の社会にも題材を求め、義理と人情の板挟みのなかで人間らしく生きようとする庶民の極限状況を描いた。
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宝暦元年『役行者大峰桜』の序を書いてデビュー、師の没後、竹本座の中心的な作者となり、宝暦9年『日高川入相花王』、宝暦12年『奥州安達原』で好評を博し、宝暦13年39歳で立作者となる。明和3年、『本朝廿四孝』、明和5年『傾城阿波の鳴門』、明和6年『近江源氏先陣館』、明和8年『妹背山婦女庭訓』、安永9年『新版歌祭文』と、現在も歌舞伎・文楽でしばしば上演される名作群を書き、並木宗輔に続く竹本座の全盛期を築いたが、天明3年初演の『伊賀越道中双六』の執筆中に死去した。本作は近松加作により完成・上演された。
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