傾城買
19 の例文
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傾城買にかけては日本無類の藤十郎様を、今度はかっきりと気を更えて、密夫にしようとする工夫じゃ。傾城買の恋が春の夜の恋なら、これはきつい暑さの真夏の恋じゃ。身を焦がすほど激しい恋じゃ。
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彼は、七三郎の巴之丞を見た時に、傾城買の世界とは、丸きり違った新しい世界が、舞台の上に、浮き出されている事を感じない訳には、行かなかった。ただ浮ついた根も葉もないような傾城買の狂言とは違うて、一歩深く人の心の裡に踏み入った世界が、舞台の上に展開されて来るのを認めない訳には行かなかった。見物は、傾城買の狂言から、たわいもなく七三郎の舞台へ、惹き付けられて行った。
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ただ浮ついた根も葉もないような傾城買の狂言とは違うて、一歩深く人の心の裡に踏み入った世界が、舞台の上に展開されて来るのを認めない訳には行かなかった。見物は、傾城買の狂言から、たわいもなく七三郎の舞台へ、惹き付けられて行った。が、藤十郎は、見物のたわいもない妄動の裡に、深い尤もな理由のあるのを、看取しない訳には行かなかったのである。
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弥五七さればこそ前代未聞の密夫の狂言じゃ。傾城買にかけては日本無類の藤十郎様を、今度はかっきりと気を更えて、密夫にしようとする工夫じゃ。傾城買の恋が春の夜の恋なら、これはきつい暑さの真夏の恋じゃ。
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そして、藤十郎の傾城買と云えば、竜骨車にたよる里の童にさえも、聞えている。また京の三座見物達も藤十郎の傾城買の狂言と言えば、何時もながら惜し気もない喝采を送っていた。彼が、伊左衛門の紙衣姿になりさえすれば、見物はたわいもなく喝采した。
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彼は、二十の年から四十幾つと云う今まで、何の不安もなしに、濡事師に扮して来た。そして、藤十郎の傾城買と云えば、竜骨車にたよる里の童にさえも、聞えている。また京の三座見物達も藤十郎の傾城買の狂言と言えば、何時もながら惜し気もない喝采を送っていた。
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傾城買の経緯なれば、どんなに微妙にでも、演じ得ると云う自信を持った藤十郎も、人妻との呪われた悪魔的な、道ならぬ然し懸命な必死の恋を、舞台の上にどう演活してよいかは、ほとほと思案の及ばぬところであった。これまでの歌舞伎狂言と云えば、傾城買のたわいもない戯れか、でなければ物真似の道化に尽きていた為に、こうした密夫の狂言などに、頼れるような前代の名優の仕残した型などは、微塵も残っていなかった。
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前祝いに、もう一つ受けて下されませ。傾城買の所作は、日本無類の御身様じゃが、道ならぬ恋のいきかたは、また格別の御趣向がござりましょうな。
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洒落本とは、遊所での遊びの様子を書いたもの。山東京伝の『傾城買四十八手』などがある。滑稽本とは、おかしみのある話。
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和一は伊勢の人、管鍼の術を発明、将軍綱吉の病を治して関東総録検校となった。雲助が傾城買の昔を語る 雲助は住所不定の浮浪者で、江戸中期以後、駕籠かきその他で道中の人に取入ろうとすることが多かった。傾城買いは芸者買い。
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彼が、近松門左衛門に、急飛脚を飛ばして、割なく頼んだことは、即座に叶えられたのであった。今までの傾城買とは、裏と表のように、打ち変った狂言として、門左衛門が藤十郎に書与えた狂言は、浮ついた陽気なたわいもない傾城買の濡事とは違うて、命を賭しての色事であった。打ち沈んだ陰気な、懸命な命を捨ててする濡事であった。
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その後、約7年著作がなく、1798年『傾城買二筋道』から執筆活動を再開、末期の洒落本界を牽引した。なお、伝記に不明な部分が多く、梅月堂梶人を谷峨と同一人物とみなす尾崎久彌説に対して、梅月堂梶人や遊里山人は谷峨と別人とする棚橋正博説が存在する。
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源次 昨日も宮川町を通っていると、われらの前を、香具売らしい商人が二人、声高に話して行く。傾城買の四十八手は、何一つ心得ぬことのない藤十郎様が、密夫の所作を、どなに仕活すか、さぞ見物衆をあっといわせることだろうと、夢中になっての高話じゃ。長十郎 藤十郎の紙衣姿も、毎年見ると、少しは堪能し過ぎると、悪口をいいくさった公卿衆だちも、今度の新しい狂言にはさぞ駭くことでござりましょう。
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傾城買の経緯なれば、どんなに微妙にでも、演じ得ると云う自信を持った藤十郎も、人妻との呪われた悪魔的な、道ならぬ然し懸命な必死の恋を、舞台の上にどう演活してよいかは、ほとほと思案の及ばぬところであった。これまでの歌舞伎狂言と云えば、傾城買のたわいもない戯れか、でなければ物真似の道化に尽きていた為に、こうした密夫の狂言などに、頼れるような前代の名優の仕残した型などは、微塵も残っていなかった。それかと云って、彼はこうした場合に、打ち明けて智慧を借るべき、相談相手を持っていなかった。
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その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し『傾城仏の原』『けいせい壬生大念仏』『仏母摩耶山開帳』などの近松の作品を多く上演し、遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固め、当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」とその人気振りが書かれている。元禄8年には都万太夫座座元にもなった。
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この話はこの後に至って、自貞がどうしたか、何時死んだか、再法庵というのはどの辺にあったか、その外の歌はどういうのか、主人公の事が少しも判らない。とにかく、文化三年、司馬芝叟が「新吉原瀬川復讐」という浄瑠璃をかき、続いて「傾城買虎之巻」となっていよいよ面白くされ、吉原遊女の仇討として人の好奇心をそそったのである。
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四郎五郎 そうは申すものの、新しい狂言だけに、藤十郎様の苦心も、並大抵ではあるまい。昔から、衆道のいきさつ、傾城買、濡事、道化と歌舞伎狂言の趣向は、たいていきまっていたものを、底から覆すような門左衛門様の趣向じゃ。それに京で名高い大経師のいきさつを、そのまま取入れた趣向じゃもの、この狂言が当らないで何としようぞのう。
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