信濃先方

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  • 以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
  • 信氏は秋山虎繁配下となり、『甲陽軍鑑』では信濃先方衆に含まれている。
  • 武田氏の信濃先方衆の1人として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した。
  • 一時期越後へ入っていたようだが、後に武田方に再度降って信濃先方衆となった。
  • 武田信玄に仕える兄の幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。
  • はじめ武田信玄に信濃先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き勝頼に仕えた。
  • その後は武田氏の信濃侵攻の信濃先方衆の一人として活躍し、深志家小笠原信定の守る伊那郡鈴岡城を攻めた。
  • 父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。
  • その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入った。
  • 武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。
  • 永禄3年に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得る。
  • 武田家臣として『甲陽軍鑑』には隆永の名は散見しており、同書の「信玄代惣人数書上」では信濃先方衆として矢沢家と共に記載されており、隆永は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として武田家に認められていたようである。
  • その後依田信守の代に諏訪氏の傘下に入ったとされるが、天文11年には諏訪氏は武田氏に滅ぼされ、翌12年に武田氏の佐久侵攻で臣従、以後信濃先方衆として活躍する。
  • 以後の屋代氏はおよそ三十年間にわたり信濃先方衆として活躍し、その軍役は70騎と伝えられ、永禄2年に屋代城から荒砥城に移る。
  • しかし、天文20年武田方の部将・信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、兵を動かすことなく砥石城は武田軍の手に落ちた。
  • 真田幸隆とは同じ信濃先方衆として親交を深めていたこともあり、長女が幸隆の次男の真田昌輝に嫁いでいる。

信濃先方 の使われ方