佐伯有頼
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名詞
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ただし、猿に助けられて川を渡ったという伝説は、道元ではなくて佐伯有頼の話として伝えられることもある。thumb|1909年の藤橋 このようにその濫觴に様々な伝承が残る藤橋であるが、1682年の『立山路往』によれば藤橋はもともと籠を以て両岸を接続する籠の渡しであったとされる。
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また、脇を日本一の暴れ川と称される常願寺川が流れ、たびたび水害をもたらした事から、現存の規模になっているが、この施設から流されたものが、御神体になって作られた神社が、下流地域にいくつもあることから、昔は今よりも大規模な施設であったと推測される。佐伯有頼が建立した当時の建物はすでに古文書の中にしか無く、現在残っているものは源頼朝が修復・再建し、足利義材が修復したものが受け継がれている。その為か神社の建物に菊の紋章が入っていない珍しい神社でもある。
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創刊号で水橋出身の童話作家大井冷光を取り上げた際、冷光は佐伯有頼の銅像を作りたいという願いがあったが70年間埋もれたままというエピソードを掲載後、「私たちがやりましょう」の廣瀬の声で立山開山1300年の機会に有頼像を建てることとなった。その後2001年呉羽山展望台に「佐伯有頼少年像」が建立された。没後の2012年3月に蔵書が富山県に寄贈された。
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鷹取氏はしばしば誤って高取氏と書かれた。菅家一党であることは確かだが、鷹取氏が江戸時代森氏に提出した書状では元来朝廷より出て、大和国に一城を構えたものの、落居して作州に来たといい、また一説に佐伯有頼の後というが、定かではない。太平記に見える四条猪熊合戦から戦国時代の終焉まで菅家党として活動したが、宇喜多氏の侵攻により原田氏とともに傘下に入り、当時降伏した兵に道案内と先鋒を命じる習いがあったとはいえ、宗家有元氏に弓を引くこととなった。
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本尊は観世音菩薩。寺伝によれば大宝元年佐伯有頼によって現在地より南方の山頂に創建され「新山寺」と名付けられた。創建より約50年後に、唐の高僧鑑真和上により現在の本山寺に改められたとされる。
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岩峅寺における立山信仰の拠点であった。開祖佐伯有頼が、立山権現の化身である白鷹によって導かれた岩窟の正面に位置し、この地より立山開山の伝説が始まった。武将や公家からの信仰も篤く古来より「立山権現」への献上品はこちらに奉納された。
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晩年は月刊人物誌『越中人譚』に巻頭言や記事を執筆した。創刊号で水橋出身の童話作家大井冷光を取り上げた際、冷光は佐伯有頼の銅像を作りたいという願いがあったが70年間埋もれたままというエピソードを掲載後、「私たちがやりましょう」の廣瀬の声で立山開山1300年の機会に有頼像を建てることとなった。その後2001年呉羽山展望台に「佐伯有頼少年像」が建立された。
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薬師岳は、美女平から弥陀ヶ原までの坂道の途中、右手に当って、栂、ブナ、朴などの原生林の梢越しに、根張りゆたかな山容をどっしりと据えていた。立山開山伝説では、国司の息子の佐伯有頼が、逃げた白鷹を追って急坂を登りつづけ、疲れて倒れ伏した野で、薬師如来から薬草を教えてもらうことになっている。富山の薬売りは薬の効能を語りながら、併せて立山権現の功徳をひろめていったのだと思うけれど、説話の舞台に、熔岩台地と旧火口壁の急斜面とが相次ぐ立山周辺の地形がよく取り入れられ、富山平野からいきなり三千メートルに近くそびえたつ立山連峰への畏怖と渇仰の心がこめられていておもしろい。
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江戸時代から立山信仰の拠点として栄え、戦後は山岳ガイドの集落として知られた。住民の名字は、そのほとんどが佐伯有頼による立山開山伝説に端を発する「佐伯」「志鷹」の2姓で占められている。そのため、住民同士が互いを呼び合う際には下の名前や屋号を用いることが多い。
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地獄谷とか弥陀ケ原とか浄土とか薬師とか、立山周辺には立山権現布教のためにつけられた仏教的な名前が多く、奈良時代の開山伝説以来、平安時代から江戸にかけて、全国的な信仰登山の対象になり、信者たちは芦峅寺に住む先達にひきいられて登山した。先達は修験者であり、志鷹光次郎さんの志鷹姓と佐伯民一さんの佐伯姓がほとんどで、開山は国司の息子の佐伯有頼になっている。白鷹を追って山に導かれ、山頂で阿弥陀如来に出あったということになっているのだが、立山の神変じて仏になるということで、いかにも神仏混淆説らしい伝承である。
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立蔵神社は、与四兵衛山を境内に持つ神社で、現在では山村の小さな神社に過ぎないものの、かつては立山信仰の上で重要な神社であり、雄山神社の「本宮」と称されていたという。社伝によると、701年に立山開山の祖である佐伯有頼が五穀成就のために保食神を字立蔵洞に祀ったのが起源で、714年、佐伯頼本に譲って地名により立蔵社と称し、立山の本宮と伝承された古社であるという。一説には、佐伯有頼の師にあたる薬勢上人が建立したものとも伝えられ、立山への道筋として、峰近くの説法ヶ原に鎮座し、庶民の立山礼拝祭場の本宮として、芦峅寺の中宮、岩峅寺の前立社壇と同格の立山三宮の一つとされていたという。
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thumb|right|300px|ミクリガ池から望む立山、右中央に室堂山荘 立山権現は、立山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来を本地仏とする。大宝元年、佐伯有頼が立山で鷹狩りをしている時に、阿弥陀如来の垂迹である熊の神験に遭ったのが立山権現の由来であり、修験道場としての立山の開山と伝承される。
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社伝によると、701年に立山開山の祖である佐伯有頼が五穀成就のために保食神を字立蔵洞に祀ったのが起源で、714年、佐伯頼本に譲って地名により立蔵社と称し、立山の本宮と伝承された古社であるという。一説には、佐伯有頼の師にあたる薬勢上人が建立したものとも伝えられ、立山への道筋として、峰近くの説法ヶ原に鎮座し、庶民の立山礼拝祭場の本宮として、芦峅寺の中宮、岩峅寺の前立社壇と同格の立山三宮の一つとされていたという。大山地区の本宮にある立蔵神社境内には、公卿石と呼ばれる大石があった。
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祭神は天水分神と国水分神で、天地の水を司る神である。立山カルデラにある湖沼の一つである刈込池は龍王の住処とされ、伝説では立山開山の祖、佐伯有頼が常願寺川の氾濫を鎮めるため水害をもたらす三里四方の悪龍や大蛇を立山権現に祈って全てこの池に閉じ込めたという。
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古代日本に存在した佐伯部の子孫で神官の家柄。先祖に佐伯有頼がいる。旧制富山高校を経て、東京帝国大学英文科、同大学院修了、旧・東京都立大学助教授を経て、1967年にカナダ・トロント大学で客員教授として日本文学を講義、1968年東京大学教養学部教授、1976年から大学院比較文学比較文化研究室主任。
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