京都奪回

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  • このため以後の7年間は平和が保たれる事となり之長も京都奪回を中止しなければならなかった。
  • 永禄十二年初頭の三好勢の反攻は潰え、以後の京都奪回は不可能視されるに至った。 池宮彰一郎『本能寺(上)』より引用
  • 勝正が京都に進出した信長に帰属したため、京都奪回を図る三好三人衆と戦い、撃破を続けた。 池宮彰一郎『本能寺(下)』より引用
  • 三好勢一万が京都奪回に失敗すると、堺会合衆は新将軍足利義昭に祝賀の使者を送った。 池宮彰一郎『本能寺(上)』より引用
  • このような事態を見てか、7月には政勝・元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶は松永久秀とその弟の松永長頼に命じて破った。
  • 建武2年に起こった中先代の乱を契機に尊氏が建武政権から離反すると細川氏も従い、京都奪回に失敗した尊氏が九州へ落ちる際には兄や従兄弟の細川顕氏らと共に四国地方へ分遣された。
  • 尊氏は師直や義詮と共に京都奪回を図るが、直義軍との戦いで連敗して丹波・播磨へと落ち延びた。
  • とにかくそんな北畠親房であったから、吉野にいても全国に目をくばって、とくに京都奪回には、一念をそそいでいた。 吉川英治『私本太平記』より引用
  • 北畠顕家は、大和国般若坂で足利勢に敗れ、その後摂津国方面に転戦し京都奪回を狙ったものの、和泉国石津にて5月22日に戦死した。
  • ところが晴元が京都奪回のために軍を興し、これに波多野晴通が加担したため、長慶は4月25日に丹波八上城を包囲した所、従軍していた芥川孫十郎・池田などが波多野に味方したため、5月23日に包囲を解いて越水城に撤退する。
  • 享禄元年、高国と京都奪回を試みるが、晴元の前に敗れたため、尹賢は落ち目になった高国を見限って晴元側に寝返り、享禄4年には三好元長と共に高国を敗死させたが、その直後から晴元と不和になり、最終的に7月24日、晴元の命を受けた木沢長政によって摂津で殺害された。
  • 尊氏の京都奪回に伴い、12月に後醍醐は吉野に潜幸して南朝を樹立したが、延元2年/建武4年3月頃に清忠はこれを追って吉野入りし、南朝政権の一角を占めたようである。
  • 近江に亡命していた義晴は京都奪回を図り、天文19年2月に京都東側の慈照寺の裏山に中尾城を築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に義輝が晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。
  • わが子のことゆえ、この口からはほめ難いが、かつて顕家は、千里の遠くからこれへ駈けつけ、大和、河内の賊軍を追いしりぞけ、よく先帝のみ心を安めたが、ついぞ伊勢にありしこの父へも、会いには来ず、吉野の御所へも、京都奪回を見る日まではと、いちどの伺候もしていなかった。 吉川英治『私本太平記』より引用
  • だが、足利氏の内紛である観応の擾乱のおり、南朝方が勢力を盛り返し、正平6年11月に南朝の後村上天皇により崇光天皇は廃され、翌年2月、南朝軍の京都奪回に伴い、光明・崇光両上皇とともに拉致され、京都を追われて撤退する南朝軍によって山城男山、さらに南朝の当時の本拠であった大和賀名生に連れ去られた。
  • 天文18年の江口の戦いで細川晴元の部将香西元成を攻撃、天文19年に京都奪回を図り近江から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止、長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。
  • そこで、義晴・義輝父子は京都奪回を期し、天文19年に中尾城、将軍山城を築城・増築した。
  • しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。