丹石流
全て
名詞
16 の例文
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では、このわしの丹石流の太刀筋も入っているわけかな。
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お綱はそう思うほど強くなった。けれど孫兵衛は、ひとかどの男さえ、歯の立たない丹石流の達者だ。なんで、女の匕首に、身を掠らせるような隙があろう。
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「どちらが上と見ましたかな」 と雨貝が言った。雨貝新五左エ門は、もと百七十石で郡奉行を勤めた人物だが、丹石流の高名な剣士でもあったので、早く隠居して家督を息子に譲り、道場を開いて剣ひと筋の道に入った。家中から雨貝道場に学ぶ者はおよそ百人と言われ、城下でもっとも盛んな道場になっている。
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黒川は江戸詰の間に、小野派一刀流の道場に通って、かなり腕を上げた。帰国したころは、丹石流の浅井道場や孫四郎が通った中丸道場をたずねて、さかんに試合を挑んだらしい。孫四郎自身には記憶がないが、馬廻組の同僚の話からそういうこともわかったので、孫四郎はその話を持ち出したり、普請組の勤めのことを聞いたりしたのだが、話はどうしても途切れがちになる。
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しかし、お前のほうは、女のほかにあの屋敷の、すばらしい財宝まで、鷲づかみにしようとする、分の勝っている所がある。いわば、この仕事はそっちが七分で、おれが三分、その三分がとこで、丹石流の腕前を貸してやるようなものだ。
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野々村新蔵は右筆を勤める藩士だが、非番の日には、俊吾が通っている浅井という丹石流の道場の次席を兼ねる。新蔵の丹石流は技の切れが無類で、師範代の岡安満之助をしのぐのではないかといううわさがあったが、孫四郎はその技を見たことはない。その新蔵は孫四郎を見ると、唐突なことを申し上げるようだがと前置きして、近ごろ道場で俊吾が無用の争いをする、少し家で叱っていただけまいかと言った。
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仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。また吉田悟助ら干城隊一派の天下である今、不用意な言動は慎まなければならなかったのである。
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辻斬り商売のお十夜孫兵衛、本名は関屋孫兵衛である。もと阿波の国川島の原士、丹石流の据物斬りに非凡な技をもち、風采もなかなか立派だが惜しむらく、女慾にかけても異常という性質がある。阿波の原士というのは、他領の郷士とも違い、蜂須賀家の祖、小六家政が入国の当時、諸方から、昔なじみの浪人が仕官を求めてウヨウヨと集まり、その際限なき浪人の処置に窮して、未開の山地を割りあてた。
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丹石流の呼吸である。
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丹石流は、衣斐丹石により安土桃山時代に成立した剣術の流派。創始者衣斐丹石は念流を学んだと言われる。
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なお、猿御前という人物については未詳であり、通常、陰流開祖は愛洲久忠とされており猿御前との関係は不明である。また、沼田法印は丹石流の遠祖とされるが、『本朝武芸小伝』では丹石流は東軍流系とされている。また、綿谷雪・山田忠史編纂の『増補大改訂 武芸流派大事典』の「念流」の項に『樋口家文書』と間光延の『剣術系図』に記された門人名の比較が掲載されているが、『剣術系図』には猿御前・沼田法印・樋口太郎兼重の名前は記されていない。
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息子の顔を見て、今日の下城間ぎわに大玄関で出会った野々村新蔵が言ったことを、また思い出したのである。野々村新蔵は右筆を勤める藩士だが、非番の日には、俊吾が通っている浅井という丹石流の道場の次席を兼ねる。新蔵の丹石流は技の切れが無類で、師範代の岡安満之助をしのぐのではないかといううわさがあったが、孫四郎はその技を見たことはない。
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しばらくの間のことと思うから、大目にみてもらいたいと頼むしかないなと思いながら、孫四郎は細い路地をひとつ曲がった。丹石流の浅井道場は、町の裏通りにある。やがて道場が見えて来て、孫四郎は道場の出入口の方にむかって足をはやめた。
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父から丹石流を学び、去水流、東軍流、卜伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流など諸流の剣術を修めた。深尾家を継いで深尾角馬と名を改め、剣法の流儀を創始。
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鳥取藩で伝承され、現在は鳥取市指定無形文化財。丹石流、去水流、東軍流、卜伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流など諸流を修めた深尾角馬が、「井の中の蛙と雖も大海を知らざるべけんや」との意で「雖井蛙流平法」と称して創始した。兵法ではなく平法としたのは、武士が平素から稽古すべき心得を説いているからであるという。
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