中山伝信録
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康熙58年、琉球王国に冊封副使として赴き、尚敬王を冊封した。帰国後に、約8ヶ月間の滞在記録を『中山伝信録』としてまとめた。
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宮古島の南約33kmの北緯24度25分30秒・東経125度28分にあるとされた島であり、日本では1906年8月まで海図に記されていた。実際には宮古島の北西にある池間島が、1721年の『中山伝信録』に誤って宮古島の南東にあると記され、これを参考にしたその後の文献や海図に、池間島とは別の島として掲載されたものと考えられている。
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しかるに『世譜』以下の後代の史書は、これを承継せずにはおられなかったのみならず、是がひとたび外に伝わるや、本邦の学者たちまずそれに共鳴し、ついで清朝の冊封使ら、争うてこれを認め且つ伝えた故に、羽翼すでに成り、ついに動かすべからざる定説となってしまったのである。有名な徐葆光の『中山伝信録』が、ちょうど世に公けにせられた頃に、琉球では雍正九年の朝議というものがあって、是が大きな問題となり、その文書は今も伝わっている。
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なお、ヒヌカンを先に、その次にトートーメーを拝む。琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着のヒヌカン信仰と融合して、女性の間で広く信仰された。
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各巻の内容は以下の通り。本書は日本に輸入されて、『重刻中山伝信録』と称する和刻本が累次刊行され、江戸時代の学者はこの書から琉球の知識を学んだ。また、清に渡ったフランス人イエズス会士は、1751年に本書をフランス語に抄訳してパリに送り、この抄訳は1758年に刊行された書籍に「中国人が琉球諸島と称する諸島についての覚書」として収載され、ヨーロッパにおける琉球についての貴重な情報源となった。
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しかし、『中山伝信録』に付された「琉球三十六島図」という地図では「伊奇麻」は「太平山」の北西に描かれており、徐葆光は『中山伝信録』本文では池間島の位置を誤って記載としたものと考えられている。フランス人イエズス会士で清にわたったが1751年にフランス語で著した『シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書』には、『中山伝信録』が抄録されたが、ここでも宮古島の南東にイキマ島が記され、その存在がヨーロッパに広まることになった。ジェイムズ・バーニーが1897年に製図し、1909年に発行された『東亜輿地図』にも同様の位置にイキマ島が描かれている。
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また、1720年に琉球王国に冊封副使として赴き、約8ヶ月を沖縄本島で過ごした清の官僚徐葆光の滞在記録『中山伝信録』においては、巻第二では天使館で提供された食料について「米肌は白酒の如きなるもやや薄い」と記しており、「米肌」は「みき」の音訳、白酒はどぶろくと見られる。また、巻第四の大島についての記述に「焼酎、米肌、黒糖、蘇鉄等が皆ある」とある。
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また、『水滸伝』の李俊が暹羅に渡り国王になったという話を為朝に置き換えて作られ、その子供・「舜天丸」が国王として琉球を治めるという内容を含んでいる。馬琴は琉球について、徐葆光の『中山伝信録』と森島中良の『琉球談』などを参考にして解説し、当時の日本人にとって、異国情緒のある琉球を舞台に仕上げている。
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ただし、『おもろさうし』の「こはしま」は、前後の歌との関係等から見て慶良間諸島の久場島のことであるともされる。沖縄本島と中国福州の航路上にあり、琉球王府時代には航海の標識として重要であったため、冊封使によって航行中にこの島を見たことが記録されており、陳侃の『使琉球録』では「釣魚嶼」と、徐葆光の『中山伝信録』では「釣魚台」とされている。
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しかし、『中山伝信録』に付された「琉球三十六島図」という地図では「伊奇麻」は「太平山」の北西に描かれており、徐葆光は『中山伝信録』本文では池間島の位置を誤って記載としたものと考えられている。フランス人イエズス会士で清にわたったが1751年にフランス語で著した『シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書』には、『中山伝信録』が抄録されたが、ここでも宮古島の南東にイキマ島が記され、その存在がヨーロッパに広まることになった。
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しかし、「陶松寿」と琉球に渡った「為朝」らは、殺された「毛国鼎」の子供である「鶴・亀」兄弟に父の敵として、「利勇」を討たせた。曲亭馬琴作の『椿説弓張月』は、特に、1765年に出版された徐葆光著『中山伝信録』の和刻本と、それを読みやすく抜き出して書き直した森島中良の『琉球談』の2つから、登場人物のモデルを多く採用している。前述した『椿説弓張月』に登場する「利勇」は、天孫氏25代を滅亡させた利勇がモデルであるが、作中における最大の敵は彼ではなく、馬琴が作り上げた「曚雲」である。
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慶世村恒任は『宮古史伝』において、「ピサラ」とも「ミヤコ」とも呼ばれていたものが、一方は村落の名前に、他方は島の名前になったと考察しており、「ヒララ」は平地を意味し、「ミヤコ」は都の意で勢力の中心を示すとする。清の冊封副使として琉球王国に赴いた徐葆光が1721年に著した『中山伝信録』には「太平山、一名麻姑山 始為宮古、後為迷姑、今為麻姑」と記されている。前半は宮古島が「太平山」や「麻姑山」とも呼ばれていたことを示しており、後半は「はじめはミヤコといい、後にメークといい、今はマークという」と解されている。
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同年8月、内務卿山県有朋は沖縄県に対して、魚釣島、大正島、久場島の三島への調査を命じた。沖縄県令の西村捨三は部下の石澤兵吾に現地住人からの聞き取り調査を行わせ、9月21日に石澤が現地住人から受け取った報告書では、「『中山伝信録』の赤尾嶼は久米赤島、黄尾嶼は久場島、釣魚台は魚釣島に相当すへき」と記された。
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八重瀬岳付近より南方一帯は、沖縄戦跡国定公園に指定されている。方言で「エージダキ」といい、『中山伝信録』には「八頭嶽」と記載され、『琉球国由来記』には「八重瀬嶽御イビ」とある。また富盛には「上の五御嶽」と「下の三御嶽」が存在していたと伝わり、前者の御嶽は八重瀬岳の窪地にあったという。
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朝鮮人参のみならず、甘藷や木綿の研究にも務め、栽培技術の普及にも努めた。門人に平賀源内・中川淳庵・曽占春などがおり、『人参譜』『人参耕作記』『中山伝信録物産考』『琉球物産誌』など多くの著作を著した。
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