下祇園町
4 の例文
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翁も亦、不言不語の間にこの事を覚悟し満足していたらしい事が、その生涯を通じた志業の裡に認められる。そうして今は何等の伝うるところもなく博多下祇園町順正寺の墓地に灰頭土面している。墓を祭る者もあるか無しの状態である。
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それによれば、「初代陶師」として中ノ子長右衛門が下祇園町に住んでいたことが記録されており、陶器等を作っていたものと思われる。大乗寺前町に住んでいた8代陶師中ノ子長右衛門が、幕府の規制により長男・9代長右衛門に家業の陶師を継がせ、次男・長四郎には土産品向け土人形の制作を行なわせた事が、博多人形の祖である博多素焼人形の起こりである。
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正木家は1600年に正木宗七が福岡藩御用瓦師として、博多の地に移り住んでいる。中ノ子安兵衛・吉兵衛の住む下祇園町とは隣同士の町に住むなど、技術協力があったかのように推測できるが、正木家は瓦土を使用した瓦及び焼物を作っており、その技法は「宗七焼」と呼ばれる一子相伝の技を妙とするため、近似である博多素焼人形との技術協力があったとは考えられない。よって現在では、正木家及び宗七焼は、博多人形に多少の文化的影響力を持っていたと推測されるものの、交流は全く無かったと考えられている。
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平尾は三代目山口組石井組の組員だったが、明友会事件で大阪府警から傷害および銃刀法違反の容疑で指名手配されていた。平尾は福岡県福岡市東中洲の山口組伊豆組・伊豆健児組長の預かりとなり、伊豆が用意した福岡市下祇園町の「博多アパート」302号室に住んだ。暫くして平尾は、以前からの知り合いだった福岡県嘉穂郡二瀬町の炭鉱経営者・松岡福利から700万円を受け取る。
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