下地中分

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  • また、元亨4年には伊作庄が下地中分され伊作川以北は領家方となった。
  • 領家中世の下地中分において、領家側に権限が残った土地が地名の由来となったもの。
  • また、下地中分の結果として、下地の管理・経営に関する業務も分割されることになったため、所務分けとも呼ばれた。
  • 下地中分とは、日本の中世に使用された用語で、荘園公領制下の重層的に入り組んだ支配・権利関係の中で、それぞれの主体が一元的に土地を支配することを目的にして行われた、土地の分割を指し示す用語である。
  • 特に鎌倉時代に入ると領家に代表される上級の荘園領主と鎌倉幕府と結びついた地頭に代表される在地領主の争いが深刻化し、ついに領家と地頭の間で下地の分割、すなわち下地中分による和与が実施されるようになった。
  • 以上のような地頭請・下地中分・直営地の拡大は、地頭が荘園・国衙領の土地支配権へ侵出していったことを表す。
  • このような分割が行われた場合に両者が図面を作成したことを窺わせる史料が、日本史の教科書にも掲載されることの多い「伯耆国東郷荘下地中分絵図」である。
  • 南北朝の内乱から寺社本所領事による下地中分の過程で京都周辺以外の公家領の多くは「不知行」化されて、収入が全く入ってこない名目上だけの存在となる。
  • 中分には、両者の談合で決着する和与中分や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分があった。
  • そのために朝廷の所領についてはともかく、寺社・公家の所領に関しては武家は軍事的実力を背景に下地中分・返還には応じず、殆ど効力がなかったと考えられている。
  • 元享4年に伊作庄が下地中分され、伊作庄は南北に折半されたが伊作川が中分の境界となったことから、伊与倉は南北に分割され統治されることとなった。
  • 鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請や下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。
  • 南北朝時代の頃に入ると、地頭ら在地勢力による請所・下地中分の展開、職の体系に基づく支配体系の動揺、代銭納や割符・為替などの登場によって従来の荘園領主や彼らに派遣された所務代官による支配が困難になる中で、好条件での代官請を行って収益確保を図る動きが現れた。
  • この動きにより、地頭請、下地中分等を通じた武家の側からのみならず、領家側からの一円知行化が活発となり、領家職を持つ地頭や地頭職を持つ領家が現れるなど、従来の身分格差に応じた職の体系が崩れだし、荘園・公領における領家職・地頭職のあり方が大きく変わることとなった。
  • なお、教科書や歴史関係の書籍によく見える「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」は当地周辺を描いたものである。
  • 正嘉2年には松尾社との対立から下地中分を行い、教科書などで有名な「伯耆国河村郡東郷庄下地中分絵図」を作成した。
  • なお、そのうち東郷荘については、荘園の下地中分を示す絵図として代表的な「伯耆国東郷荘下地中分絵図」が松尾大社に伝えられていた。
  • そこで荘園領主は、地頭請所の契約を結んで、荘園管理の一切を地頭にまかせるかわりに年貢の納入を約束させたり、下地中分のとりきめをおこなって、荘園の土地そのものを領主と地頭で折半したりした。
  • 豊作凶作にかかわり無く一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭請や、荘園を地頭分と領家分に強引にわける下地中分など、一部で横暴も多くあった。
  • 鎌倉時代の下地中分の史料として知られる「東郷庄下地中分絵図」では当地を「伯井田」と書かれており、これが「羽合田」に転訛した。