三昧堂
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名詞
48 の例文
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不断の三昧堂などもけっこうな設計でお作らせになったと申すことを聞きました。宇治へおいでになりますことは昨年の秋ごろから以前よりもはげしくなったようでございます。
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泰文は無気味な冷笑をうかべて、それはもともと嫁資の一部をなしているはずのものだから、こちらの領分へとりこむが、そのほかの隠し田をあるだけさらけださなければ、童めらを勘当すると脅しつけた。そのころ泰文は東山の八坂の中腹に三昧堂のようなものを建てた。有名な無信心者がどういう気で持仏堂など建てたのか。
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終了予定の2日前に礎石1点が発掘されたことをきっかけに、三昧堂跡が発見された。その結果、小学校校舎は寺跡の南端よりさらに南に建設し、寺跡は校庭とし、遺跡全体は校庭地下に保存することとなった。
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芦田氏、さばけてゝ感じよく、食ひ物も二人前宛あるのもいゝ。ニッサン本社へ寄り、借りる車のこと相談して、それから三昧堂へ寄り、座へ出る。今日も大満員、補助売切。
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遺跡の規模は南北400メートル、東西300メートルの範囲と想定されている。周辺は住宅街で、周辺には御岳田遺跡、三昧堂遺跡、末法遺跡などの遺跡が分布している。縄文時代の集落は台地や扇状地上に立地する傾向にあり盆地底部に立地する遺跡数が少ないが、荒川右岸地域では縄文時代の遺構・遺物は原腰遺跡や松ノ尾遺跡、甲府市の上石田遺跡などで住居跡や遺物が確認されており、金の尾遺跡からも中期の住居跡8軒が確認されている。
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が、治承4年に平重衡の南都焼討によって焼失し、永く再興されなかった。東大寺三昧堂旧本尊の千手観音像は、昔高林寺本尊であったという。天文3年に、現在の地に尼室を移し、寺を再興した。
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こういうお使いが一日に三つや四つはあるのだから堪えられない。意地悪な先輩に仕込まれることなどは全く気にならず、暇さえあれば内外の映画を見てまわり、銀座の三昧堂で新刊書を買い漁った。友達と連れ立って銀座の食べものやを軒並に食べて歩いた。
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三昧堂がひとしきり世辞をのべたてて、手前褒めをして、間もなく帰ってしまうと、師匠はこう言われた。
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また同年にその修行の為として千葉県館山市に講堂の建設に着手し、昭和35年に身延山に代わる教団内の聖地として修行道場を設定。昭和44年2月8日には、本部を館山市に移転し、三昧堂を建設。この三昧堂において義一は「法華禅」をあみだした。
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トマトクリームスープは、何と言っても此処第一、だがあとのペティ・パンと肉鶏の飯は、まづかった。雨の中銀座へ廻り、三昧堂で新刊を探す、いゝ本がなくて困る。それから放送局へ、東海道線不通の由。
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以後毎年、銀座三昧堂、菊屋画廊で個展を開催しながら画業への情熱に生きた。
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はじめてルオーの実物を見たのは、戦前、銀座にあった三昧堂という本屋の二階のギャラリーで、その赤い裸婦の圧倒的な印象に、私たちは呆然としてしまった。私たち、というのは堀田善衞と私で、二人は学校からの帰り道に、ふとこのギャラリーをのぞいたのであった。
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食事、ミネストロン、フィレソール、鳥のプリンセスにペストリー。三昧堂へ行き、二三冊求め、日暮里の高橋へ寄り、女房をロードスターに乗せて帰宅。
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しばらくして、息を吹きかえして、そっとほそ目をあけてあたりをうかがえば、家と見たのはもとの荒野の三昧堂にて、ただ黒い仏が立っていた。
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敗戦と同時に国際報道工芸社は解散してしまっていたので、彼にははたらくところがない。焼け残った銀座八丁目に三昧堂という本屋があり、書棚はからっぽなのに店頭には行列ができていた。何事だろうと思ってのぞいてみた四八は、愕然となった。
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本社へ寄り、二十七日昼を白衣招待、二十九日は静岡大火同情マチネーと決定。三直で天ぷら食ひ、ビーコンでコーヒー飲み、三昧堂で新刊を求めて座へ。大入満員、咽喉気にするほどではなかったが、「兵隊」ハリキれず、受け方も不足。
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三人で蘆花公園駅の近くの種子物屋で大根や菜類の種子を二円ほど買う。銀座まで送って出て三昧堂にてゲーテの「年代記録」という自伝風の手記と、鈴木大拙の「無心といふこと」という仏教の解説とを買う。午後町会の貯蓄の報告二通を作成し、町会長大島氏に届ける。
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