一六八〇
17 の例文
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一六八〇年から八二年までイギリス学士院長になったこともあった。数学上においては剛体の衝突に関する法則、放物線体形の鏡面の磨き方、透視のこと、曲線の弧長を求めることなどの研究があり、一張双曲面の二組の母線をも発見した。
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一六七四チャールズ・モートンの学校に入り五年間勉学する。一六八〇父は牧師にするつもりであったが、その意志に背き、シティで商売を始める。メリヤス商とも靴下仲買人ともいわれる。
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あの御本はヤッパリ普通の聖書なんです。もちろん一六八〇年度の英国の筆写本なんでゲスから相当の珍本には間違い御座んせん。三百両ぐらいの価値は確かで御座いますがトテモ千両なんて踏めるシロモノじゃ御座んせん。
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そして、急・緩・急ですから、いわゆる「イタリアふう序曲」になるわけですね。この形はアレッサンドロ・スカルラッティの一六八〇年代のごくはじめ頃の、オペラの序曲にはじめて現われるのです。だから、クリスティアン・バッハが、この曲を作曲するまでに、ほぼ一世紀の伝統ができ上っていたわけです。
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天狗山の西の馬越峠は一六八〇メートル。一八八二メートルの天狗山までは標高差二〇〇メートルなので、一時間か一時間半で頂上に達して三時間もあれば十分かと思ったのが大誤算。
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つぎに私たちはアンボルトが、そのかけがえのない貴重な収集品の全部を、北部チベットの路傍に捨てて、みじめなかっこうでチェルチェンに着いたという知らせを受け取った。彼を救い出すために、私はここからまっすぐに一六八〇マイルかなたにある、あのオアシスに自動車を急行させようと思ったが、それも財政的にできない相談とわかってみると、やむをえず待たねばならないことになった。北京の情報は、日一日と騒がしくなってきていた。
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蘇格蘭は常に凶作に襲われており、時には恐るべき飢饉にすら襲われている。一六三五年、一六八〇年、一六八八年、十六世紀末の数年、一七四〇年、一七五六年、一七六六年、一七七八年、一七八二年及び一七八三年は、いずれも各所で、欠乏の大厄年として指摘されている。
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今日でもウィーンやベルリンの博物館とか、ミュンヘンの植物生理学研究所とかには実物が収蔵されているので、あるいはご覧になった方もおいでかもしれない。なかでもウィーンの帝室王室図書庫所蔵のものは、一六八〇年以来保管されている。これは文字通り大変な貴重品である。
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一五三一年生まれのこの人物の生きた時代は、一五三六年、ジョアン三世治下での異端審問所開設と、一六八〇年の慎重王フェリペ二世によるポルトガル併合という、ポルトガル・マラーノにとっては最も多難な時代にあたっていた。しかも、アントニオが、幸運王マヌエル一世の王子ドン・ルイスと、美貌の誉れ高いマラーノ女性ヴィオランテ・ゴメスの間に生まれたご落胤であってみれば、長じていかに文武両道に秀いでていたとはいえ、彼はやはりマラーノとしての引き裂かれた運命を生きるほかなかった。
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ただ取りはずしが出来る総義歯は記録上は一六八〇年、オランダの外科医がカバの歯を彫って下顎の総義歯をつくったのが初めだそうな。
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いづれも再演、三演の人気に応へたものであらう。が、作者死後は余り上演されず、一六八〇年前後にレイヴンズクロフトが徹底的に原作を改訂し、八七年にその改訂版が上梓され、それも一七〇三年から翌四年に掛けて一回、同じく四年の八、九、十一月に三度上演されただけである。題名も『タイタス・アンドロニカス、或はラヴィニア凌辱』と改められた。
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しかし、宗教改革の嵐のなかで、ジュネーブはプロテスタントにたいして寛容に門戸をひらいていたため、ヨーロッパ各地から、時計職人がこの町に移住しはじめるようになり、その結果一六八〇年には、時計職の親方一〇〇人、労働者三〇〇人がジュネーブで時計生産に従事することになったのである。ちなみに、当時の時計の生産量は年間五〇〇〇個であったが、一八世紀末には年間八万個となり、時計生産国としてのスイスの地位が確立した。
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ラ・グランジュの「控え帳」は『町人貴族』の宮廷及び一般公開での成功を裏書きしている。一六八〇年から一九六三年まで、コメディ・フランセーズで千回以上上演し、また昭和四〇年に同座の来日公演での『町人貴族』の大成功は記憶に新しい。
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それだけに、先取権に関しフックから“いちゃもん”をつけられる覚えなど、まったくなかったのであろう。一方、フックも重力とのかかわりは古く、また、一六八〇年にはニュートンに宛てた手紙の中で、自説を開陳していた。このあたりがきっかけとなって、さきほど述べたような抗議の姿勢をフックはとったようである。
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アメリカ人がもし、なんらかの王位を認めるとすれば、さしずめ、この川を『川の王者』と呼んだことであろう。東部にあるのが、アパラチア山脈で、その最高峰は、ニューハンプシャーにあるが、それも一六八〇メートル〔現在、アパラチア山脈の最高峰は、ミッチェル山で二〇四六メートルある〕以上のものではなく、たいへん地味である。これに対して、西部ではロッキー山脈にぶつかる。
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騎馬で愛宕の石段登るを日本で褒むるが、外国には豪い奴もあって、一六八〇年一人白馬に騎り、ヴェニースの埠頭から聖マルコ塔の頂まで引っ張った六百フィート長い綱を走り登る。半途で駐って右手に持った鎗を下げ左手で旗を三度振って宮廷を礼し、また走り登って鐘塔に入り徒歩で出で最高の絶頂に上り、金の天使像に坐って旗を振る事数回、鐘塔に還って騎馬し復び綱を走り降った。
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