一五四九
17 の例文
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さういふ百年にわたる激変期、また動乱無秩序の時期を経て、信長、秀吉にいたり、始めて天下の統一となつたのである。ザビエルの来た一五四九年はさういふ混乱の時代であつた。高山右近を初めとして、当時の武将たち、たとへば小西隆佐行長父子、蒲生氏郷、牧村長兵衛、瀬田掃部等の俊秀がキリシタンになつたのは、動乱を身を以て体験した彼等がキリスト教のもつ秩序、また体系的宇宙観世界観また人世観にひきつけられたのではないか。
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スペイン・ジェスイット会の宣教師。一五四九年、日本にはじめてキリスト教を伝えた。
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日本布教の決意はこの時に固められたといわれている。この因縁によってシャビエルは、一五四九年に日本へ渡来した。これは一隻や二隻の貿易船が日本へ来たというような小さい事件ではなかった。
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当時バスコ・ダ・ガマの子ペドロ・ダ・シルバがマラッカの長官をやっていたが、いろいろシャビエルのために配慮し、日本へ直航しようというシナ船を見つけてくれた。乗船したのは一五四九年六月二十四日であった。出航後天気も風も好かったのであるが、船頭は卜いによって航海のやり方をきめるので、途中で考が変って、シナの港で越冬しようと考え出した。
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サンタさんは来日して、日本文化をどのように受けとめたのだろう。キリスト教が日本に伝わったのは、誰もが学校で「|以後よく見かけるキリスト教徒」と覚えたように、一五四九年だった。この年にフランシスコ・ザビエルが来たわけだが、サンタさんはザビエルと一緒には来なかった。
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九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。
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シャビエルが日本に来たのは一五四九年、三好長慶が京都を占領し、その家臣松永久秀に庶政を委せた年である。足利の将軍や古い管領の家はもう消滅するばかりになっていた。
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イグナティウス・ロヨラとともに一五三四年、イエズス会を結成。インド、東インド諸島布教後の一五四九年鹿児島に来朝した。九州、山口、京都で布教、滞日二年余りだったが、彼の日本への愛情と布教の方針はその後の日本キリスト教会に多大な影響を残した。
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そして丸天井も、柱も、壁も、ドアや窓の枠も、羽目板も、ドアも、彫像も、上から下まで、すっかり目にもあざやかな青色と金色で塗りたてられている。だが、このあざやかな色調も、もうこの物語の時代には少しばかりつやを失っていたし、一五四九年のころには、もうほとんど、ほこりとクモの巣の下に隠れてしまっていた。この年にデュ・ブルール神父〔十六〜十七世紀のフランスの聖職者、考古学者〕がまだこれを称賛しているのは、ただ、慣例にしたがったまでなのだ。
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一五四九年一一月九日鹿児島発ゴアあて、五二年一月二九日コチン発ヨーロッパあての二通のザビエル書簡によって、かれの目に映った日本を眺めてみよう。第一の手紙は、日本到着後最初のもので、ザビエル書簡中もっとも長く、宗門で「マグナ・カルタ」と呼ばれ、信仰生活の導きの書として尊重されている。
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シャルル九世の愛人マリー・トゥシェは、シャルル九世よりもひとつ年上で、一五四九年にオルレアンのプロテスタントの軍人の娘として生まれた。シャルル九世とは一五六六年に出会い、二人の男の子をもうけた。
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一五四七年十二月、人を殺して逃げて来た日本人ヤジローとマラッカで出会う。ザビエルはヤジローをゴアの聖パウロ学院に送って教育を受けさせ、一五四九年六月、ヤジローとともに日本伝道の旅に出た。鹿児島湾入港は同年七月、天皇や将軍の布教許可は得られなかったが、千人以上の改宗者を得てキリスト教普及の確かな手ごたえを感じ、一五五一年十一月豊後の日出港を離れた。
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マヤの神聖文字の解読が思うように進まないのは、残されているマヤの原典がほんのわずかしかないためである。そして、その責任は一五四九年、ユカタンに宣教師としてやってきたフランシスコ派の修道士ディエゴ・ランダの狂信に帰せられる。このスペイン人の神父はキリスト教の布教に妨げとなると考えてマヤ人の〝邪教〟の絶滅計画を立て、マヤの神官たちが神聖文字で記していた書物を片っ端から没収し、火に投じてしまったのだ。
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でも正直にいうとね、日本のキリスト教徒にとって、たいへんにめでたい日なのです。聖フランシスコ・ザビエルが、伝道のために渡来したのが、一五四九年八月十五日、もっと大きな意味をもつアッソムションが、八月十五日。すなわち、聖母マリア様が亡くなられ、天の御国へ還られた日だから、この被昇天祭は、カトリックにとってクリスマスに並ぶ、大きなお祝い日にあたります。
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弥次郎はゴアで洗礼を受け、その教名をパウロと言つた。トルレス神父、フェルナンデス法弟、その他の者を従へ、パウロの案内によつてその故郷鹿児島へ上陸したのは一五四九年八月十五日、聖母まりや昇天祭の日であつた。弥次郎の縁者知己はその転宗を怪しまず、遠く海外を遍歴した勇気を賞讃。
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アンジローらの資質にほれこみ、日本に大きな希望を抱いたザビエルは、アンジローを道案内として、コスメ=デ=トルレス、ジョアン=フェルナンデスらとともに、一五四九年四月一五日にゴアを出発、コチンを経由してマラッカにいたった。六月にマラッカからゴアに宛てたザビエルの手紙によると、マラッカ要塞の長官は、ザビエルのために堅固な武装船を用意しようとしたが、日本へ行く適当な船がみあたらなかったので、ラダラオの名で知られマラッカに家族のいる一中国人に、ザビエルらを日本へ送り届けるよう依頼した。
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