一七七七
17 の例文
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メーザーは一七二〇年に生まれ、マルヴィッツは一七七七年に生まれた。
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クックはその三回目の航海のあいだにも、彼が特に愛着をおぼえ、そして是非その水路測量をおこないたいと思っていたこの島を訪れた。彼が最後にここを去ったのは一七七七年二月二五日だった。一七九一年、ヴァンクーヴァーは二〇日間ほどダーク湾に寄港したが、自然科学もしくは地理学には何らの貢献もなかった。
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一七七七年に終る五箇年間に、ナポリ王国における出生の埋葬に対する比率は、一四四対一〇〇であった。しかしこの比率は、百年間にこの王国がなしとげた増加よりも遥かに大きな増加を表わしている、と想像すべき理由があるのである。
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そこんとこに、ブレイスウェート・ローリーの墓があるが、わしゃ、やつのおやじの代から知っとるが、おやじは一八二〇年に、グリーンランドの沖で行方知れずさ。それからアンドリュー・ウッドハウス、こいつも同じ海で、一七七七年に溺れ死んだ。ジョン・ハックストンはその一年あと、フェアウェル岬で、これも溺死。
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一七七六年外務大臣ヴェルジェンヌに、アメリカ独立軍に武器を供給することを説得し、七月大臣よりひそかに百万フランの金を与えられ、さらにスペイン政府より同額の金を得てロドリゲス=ホルタレス商会を設立す。一七七七年海上の覇権を掌握せる英軍の目をかすめて五百万フランの物資をアメリカに輸送することに成功。一月、女子ウージェニー生まる。
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探険家クック船長が、一七七七年、トンガ 王に贈ったといわれるカメが、昨日死亡した。二百歳ちかい高齢であった。
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例は一つで足りるであろう。一七七七年、二十一歳のモオツァルトは、一家の希望を負い、音楽による名声獲得の為に、母親と二人で、大旅行の途につく。翌年の夏、パリ滞在中母親が死ぬ。
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例は一つで足りるであろう。一七七七年、二十一歳のモオツァルトは、一家の希望を負い、音楽による名声獲得のために、母親と二人で、大旅行の途につく。翌年の夏、パリ滞在中母親が死ぬ。
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安永四年の序文を掲げてあるが、その中にはすでに遠江のカナコバシ、西国地方のセンバゴキの名が見えている。しかるにそれよりも二十何年の後、西暦一七七七年に来朝した和蘭甲比丹ツンベルグは、その江戸往来の旅行において次のような見聞をしている。是も九州の沿道筋の事と思われるが、彼の言に依れば、稲扱きは極度に簡単な方法をもって行われていた。
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もっとも像の塗料も剥げちょろけになっているが、それを見て象徴趣味を好む手合いは、そこから程遠からぬところで治療されているパリ社交病〔パリ社交病はそこからほど近いサン・ジャック新町にあったカピュサン病院で治癒されていた〕の神話をでも、きっとそこに読みとることだろう。像の台座の下にある、なかば消えかけた次のような碑銘は、一七七七年パリに帰ったヴォルテールにたいして示された熱誠のほどを披瀝し、この装飾物の由緒ある年代を偲ばせている。
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一七九一年にキャプテン・ヴァンクウヴァがオウタハイトを訪れた時には、一七七七年に別れた友人は大抵死んでしまっており、すなわちその時以来たびたび戦争があり、ある戦争ではオウタハイトの両方の酋長が敵に加わったので、王は長期間完全に惨敗し、そしてその領土は全く荒廃に帰したことを、見出した。
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ことに後者は、トルコをして宿願の地クリミア半島を割譲せざるをえなくさせた点において、彼は功によって古典的香りもゆかしいタウリス公爵にあげられたばかりか、その首都入りは、さながら凱旋将軍の観があった。彼の特異な演出家的才能、そしてまた誇大妄想狂的性格の一面を示す代表的な挿話は、一七七七年の春、エカテリーナを動かしていった、狂気じみた南露巡遊の挙であった。一行は、目もあやに飾りたてた二十隻の新造船に分乗し、はるかにドニエプル河をくだって、河口のケルソンに達し、さらに当時露土の国境であったボグ河の河口まで足をのばした。
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かなり難解な詩であつて、二度三度と讀みかへして、漸くその詩の意味が分かるやうになつた。手もとにある鴎外の「ギヨオテ傳」をみると、一七七七年十一月末、カルル・アウグスト公が昵近の士を連れて獵に出たとき、ゲエテは獨りハルツに旅した、そのときの詩のやうである。
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その運命をサン・ジェルマン伯は知っていたのだろうか?サン・ジェルマン伯自身は、一七七七年にドイツのヘッセン・カッセルにあらわれ、カッセル伯チャールズの庇護を得た。彼はこのときはトランシルヴァニアのラコッツィ侯爵を名乗っていたという。
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ファーノー船長は〈アドヴェンチャ〉でヴァン・ディーメンズ・ランドを偵察に行き、それが新オランダの一部をなすものと想像して帰って来た。ようやく一七七七年になって、第三回の航海のときにクックは〈リゾリューション〉と〈ディスカヴァリ〉を率いてヴァン・ディーメンズ・ランドに投錨した。
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パトリックはアイルランドの守護の聖者ゆえ、この名の人はアイリシュ系と思ってよい。一七七七年三月十七日、聖パトリック祭日に、北アイルランドのダウン州エムズデール村で、プロテスタント信徒の農家の長男として生まれ、多くの弟妹がいた。体格は堂々として強健、性質は謹直、知能は優秀、人品も立派、貧しいながらも工場で働いて、独学して村の教師となり、二十五歳になるまでに、大学に進学の準備に努め、一八〇二年、ケンブリッジ大学の聖ジョンズ学寮に入学した。
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