モンゲドゥ
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名詞
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しかしモンケは漠南漢地総督としてゴビ砂漠以南の支配を委ねた弟のクビライに京兆を中心とする陝西地方を与え、コデン家は河西の所領を引き続き安堵されたが、以後はこのクビライの影響下に置かれることになる。モンケの即位に協力したコデンの子モンゲドゥは、1253年に行われたクビライの雲南・大理遠征に参加している。
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新たな作戦案の下、モンケ軍が四川方面に進軍し、クビライ軍が鄂州に進軍したの対し、タガチャルは東方淮水流域の荊山に攻め入って南宋軍を分散するよう命じられた。同年11月、タガチャルはオゴデイ家のモンゲドゥと同時に一度モンケ本隊の下にやってきたが、これは新たな作戦案についてモンケが自ら口頭でタガチャルと打ち合わせるため、またタガチャル軍に属する「五投下」軍をモンケ本隊に移すためであったと推測されている。モンケとの会談の後、タガチャルはクビライ軍と邢州で合流し、ここで左翼軍の統帥権をクビライに委ねた。
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叔父の死後はコデン王家の当主モンゲドゥの宮廷に留まり、1253年に雲南遠征の途上にあったモンゴル帝国の王族クビライに招待されて六盤山に赴き、クビライの待僧となる。クビライは改宗こそしなかったものの、チベットと中国の間に「施主と説法師」の関係が成立した。
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