ホツマツタヱ
38 の例文
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八女姫神は、古墳時代の人物または神である。ホツマツタヱに名前が見えるが一般的には偽書と見られているため信憑性は低い。景行天皇が熊襲討伐の帰りに、水沼猿大海がヤツメヒメカミが峰にありと言った。
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ミカサフミは景行53年8月1日、ホツマツタヱと同時にオシロワケに上呈され、その編纂は中臣氏の祖オオカシマと序文にある。厳密には成立時期は不詳であり、ホツマツタヱと同様に確実に遡ることが可能なのは江戸時代までである。江戸時代に和仁估安聡によって書写されたもので、現在発見されている文献は1973年に松本善之助ならびに研究者によって和仁估安聡漢訳文付の序文及び8アヤが再発見された。
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稚日女はオモイカネと結婚後、下照姫と名を改め、滋賀県天の安川=野洲で瀬織津姫の御子神、天忍穂耳命を養育した。神上がってから後に、歳徳神と称えられたと『ホツマツタヱ』には記されている。
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その後、長武によって完写本が内閣文庫に収められた。長武は、ホツマツタヱと古事記・日本書紀の同一内容の箇所を比較して研究することをはじめて試みている。松本善之助や池田満の現代研究につながる端緒を小笠原長武が開いたと言える。
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これらの再発見の後、近代的な研究がはじめられるに至っている。再発見の経緯は『ホツマツタヱ発見物語』によって公表されている。真書であるという立場の論者の間では、一般に『日本書紀』編纂者の意図は、中国に対する外交政策を有利にするために、日本にも皇帝に匹敵する天皇がおり、正史を漢字で記すだけの文明があると証明する必要があると考えて、漢字で記された歴史書を作ったという見方が定着している。
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玉津島神社は、住吉大社、柿本大神とともに、和歌三神と言われている。江戸時代に作られた偽書であるとする説がある『ホツマツタヱ』には、『記紀』よりも詳細に稚日女のことが記されている。
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磯城県主とされる。長葉江の父親であり、葉江の子とされるが、ホツマツタヱの信憑性が乏しく、実在していたかは不明。カヱシネの典侍、ヌナギ姫の父で、兄弟に川津媛がいるとされる。
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いくつもの名家に伝わった文書を集めて、編集して、一つの文書に結実させてゆくプロセス。そのプロセスを『ホツマ』と命名しているとし、『ホツマツタヱ』はこうしたプロセスを経て纏められた文書群を後世に伝えたものであるとする。あえて漢訳すると、『文集纏伝』となる。
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磯城県主とされる。十市県主大目の父親であり、若葉江の子とされるが、ホツマツタヱの信憑性が乏しく、実在していたかは不明。孝安天皇 の大典侍であり、長媛の父とされる。
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さらに1992年5月、滋賀県高島市安曇川町西万木在住の井保孝夫から松本への連絡により、『秀眞政傳紀』全40アヤの完本が発見された。また『覆刻版ホツマツタへ』の上梓は、『ホツマツタヱ』研究発展に重大な影響を与えた。
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これを用いて書かれたとされるヲシテ文献がある。ヲシテは、いずれも江戸時代中期には存在したことが確認されている『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのミハタ』を記述している文字である。旧来は「ホツマ文字」とも呼ばれていた。
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しかしながら、ヲシテを縄文時代から日本で流通していた文字で、その文書もその当時の記録であり、記紀こそがその文書から制作・創作されたとする研究もある。ヲシテ研究者によると『古事記』『日本書紀』とホツマツタヱ・ミカサフミの同内容の箇所を精密に照合することによって、記紀の原書である事が認められる文献であると主張されている。原文および記紀との照合は、『校註ミカサフミ・フトマニ』および『定本ホツマツタヱ』、『記紀原書ヲシテ』によって、一般へ提示されているが、原本の写真版による復刻はなされていない。
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ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。確認されている和仁估によるホツマツタヱの写本2種の内、漢訳のない写本は天保年間に京都の天道宮の神主を務めていた小笠原通当に貸し出された。小笠原は溥泉の春日山紀を読んで読解の方法を知り、神代巻秀真政伝をまとめて天保14年に刊行した。
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ヲシテ文献の研究家である池田満は、ヲシテ文献の中で当時カミヨと呼ばれた歴史について、記紀の編纂にあたり、地上でのできごとではなく天上でのできごとであることにし、日本の天皇も皇帝と同じく天帝であると潤色したのではないか、と推定している。ヲシテ文献のひとつ「ホツマツタヱ」のカミヨの記述の内、アマカミの記述以外、臣下であるトミ・オミの記述は全く神代の時代の記紀に見られないからである。真書説の立場からは、朝廷が、当時の国字であったヲシテを捨て、漢字を国字に、漢文を公文書の公用語として採用した。
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その後、連載が終わると「ほつま」を休刊し、三年間の蟄居生活に入る。そしてこれを機に、「盲人に提灯」の読者に対し『ホツマツタヱ』を共に読むことを提案し、これに応じた仙台・東京・名古屋、少し遅れて大阪では、月一回の「ホツマツタヱ研究会」が発足した。
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また、同時期に分家小笠原長恭宅で『ホツマツタヱ』全40アヤも相次いで発見する。
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池田 満は、国語と歴史および日本の思想の研究家である。「ホツマツタヱ」など、「ヲシテ」「ヲシテ文献」の研究をしている。
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歴史学、日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされていた。だが、松本善之助により『ホツマツタヱ』の全文が発見されたのは、昭和41年であり、その後の、吾郷清人や鳥居礼などの研究家からは古史古伝のひとつであるとされていた。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字・古史古伝とは全く異なるとの主張もあらたに提出されている。
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そして懇意だった国語学者と古代史の大学教授に『ホツマツタヱ』を知らせたが、けんもほろろな応対であった。しかし、『ホツマツタヱ』を棄てず、これまで発行していた月刊誌「盲人に提灯」を思いきって月刊「ほつま」と改題し、「ホツマツタヘ発見物語」を三回に渡り連載した。
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長弘によって写された写本および、その甥の小笠原長武によって写された写本が現存している。長弘は明治7年正木昇之助と共にホツマツタヱの一部を抜粋し、宮中に奉呈しようと試みた。この写本は、現在「奉呈本」とよばれている。
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文献全体の包括的な史料批判は、池田満によって『定本ホツマツタヱ』が上梓されて、『古事記』『日本書紀』との原文の内容比較がなされている。また、『日本書紀』『古事記』との、内容比較においてどう判断してゆくかは、『ホツマツタヱを読み解く』によって公表されている。また、『ホツマツタヱ』などの内容についての総合的な解説は『ホツマ辞典』によって、年表や、系図も付録されて詳しく公表されている。
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ひとつは、奈良の律宗の寺院で西大寺の末寺である寂照寺の住職であった僧溥泉の下である。溥泉は、先師よりホツマツタヱとミカサフミおよびカクのフミの写本を見せられ、朝日神紀・春日山紀・神明帰仏編を記し、その中でそれらを引用した。この内、春日山紀は安永8年に出版された。
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また、写本を伏見宮家にも奉納したという。和仁估によるホツマツタヱとミカサフミの写本は発見ずみである。ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。
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また、『日本書紀』『古事記』との、内容比較においてどう判断してゆくかは、『ホツマツタヱを読み解く』によって公表されている。また、『ホツマツタヱ』などの内容についての総合的な解説は『ホツマ辞典』によって、年表や、系図も付録されて詳しく公表されている。
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ヲシテ肯定派は、8母音説そのものを否定する。その根拠として、『日本書紀』『古事記』などの漢字文献類とヲシテ文献の比較・対比、ホツマツタヱに記述されている『アワウタ』の存在を挙げる。これらの理由により、ヲシテ文献の記紀に対する先行性が確認できると主張し、これをもって、漢字文献類よりも古代にさかのぼる文献が発見されたことを意味し、漢字文献類を基にした8母音説は空論であると主張する。
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昭和41年8月に東京・神田の古本屋でみつけたのが、後に「奉呈本」とよばれる写本だった。「奉呈本」には3アヤしか収められていなかったため、松本は全巻の捜索に取り組み、四国の宇和島の旧家小笠原家で、ホツマツタヱ全巻の写本を2つ発見、さらに、国立公文書館の内閣文庫にも全巻の写本が収蔵されているのを発見した。平成4年には、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社からホツマツタヱ全巻の親写本が発見された。
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文献全体の包括的な史料批判は、池田満によって『定本ホツマツタヱ』が上梓されて、『古事記』『日本書紀』との原文の内容比較がなされている。また、『日本書紀』『古事記』との、内容比較においてどう判断してゆくかは、『ホツマツタヱを読み解く』によって公表されている。
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更に『よみがえる日本語-ことばのみなもと「ヲシテ」』や『よみがえる日本語II-助詞のみなもと「ヲシテ」』の出版を受けて、さらにその勢いは増しつつある。諸写本の微妙な文字の違いの校異の表記、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのフミ』の総合的な研究とその本来のあるべき姿への復権が進められつつある。ヲシテは1音1字の文字である。
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