ブジル
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名詞
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この時ブジルはイェケ・ジャルグチの地位につけられ、また蔚州・定安を食邑として与えられたという。ブジルには四人の子供がおり、それぞれ大元ウルスに仕えて活躍した。長男の好礼は南宋侵攻に従軍して昭毅大将軍・水軍翼万戸府達魯花赤の号を授かり、次男のベク・テムルは吏部尚書となり、3男の補児答思は雲南宣慰使となり、末子のブラルキは水軍翼万戸招討使となった。
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ネルゲイ、ブジル父子はチンギス・カンの征服戦争に従事して戦功を挙げ、やがてネルゲイは「バートル」の称号を与えられるに至った。中央アジア侵攻における戦いでは、ブジルは力戦奮闘したためいくつもの矢を受けてしまった。これを見たチンギス・カンはすぐに矢を抜かせたが、出血がひどくなりブジルは悶絶してしまった。
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中央アジア侵攻における戦いでは、ブジルは力戦奮闘したためいくつもの矢を受けてしまった。これを見たチンギス・カンはすぐに矢を抜かせたが、出血がひどくなりブジルは悶絶してしまった。そこでチンギス・カンは牛の腹を割いてその中にブジルを横たわらせたところ、ブジルは復調し一命をとりとめた。
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この時ブジルはイェケ・ジャルグチの地位につけられ、また蔚州・定安を食邑として与えられたという。ブジルには四人の子供がおり、それぞれ大元ウルスに仕えて活躍した。
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また、1247年にはマフムード・ヤラワチとともにイェケ・ジャルグチとされ燕京方面を統轄するようになる。更にその後、モンケ・カーンが第4代皇帝となると、新たにブジルが同じ役職に任命されるようになったため、また新たな虎符を与えられた。
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この頃、ダルガチの中にはモンゴル帝国の権威を笠に着て横暴な振る舞いをする者も多かったが、ブルト・カヤは細やかな心配りで以て職務に当たり、みだりに刑罰を用いるのを慎んだという。また、この頃の河北では「軍籍」とされた者が賦役を嫌って代理の者を募集することや、軍から逃亡する者が多く見られることが問題視されており、ブルト・カヤはモンゴル人のブジルとともに順天路などで軍籍の調査を行うことになった。調査の結果代理を募集した者1万1千戸・逃亡者12名を検挙したが、ブルト・カヤは彼等の境遇を憐れんでその罪を軽減するよう働きかけた。
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ネルゲイとノヤンはその後ネルゲイの住居に一度戻ったが、そこでノヤンはネルゲイの息子ブジルを気に入り、自らの娘を与えた。この一件を切っ掛けとして、ネルゲイとブジルの父子はチンギス・カンに仕えるようになった。このブジルを『モンゴル秘史』功臣表の「不只児」に比定する説もあるが、村上正二はチンギス・カンの治世には未だネルゲイが現役であって、その息子ブジルが千人隊長として記される妥当性は低いと指摘している。
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一方、モンケから首都カラコルムの統治を委ねられていたアリク・ブケも即位を宣言したため、クビライ派とアリク・ブケ派との間で帝位継承戦争が勃発することとなった。帝位継承戦争の勃発以前、ムングスズはモンケによってブジルとともにジャルグチに任ぜられていたが、ブジルは帝位継承戦争の開始後、アリク・ブケ派に与しようとしていた。これを察知したムングスズは自らブジルを見張り、遂にアリク・ブケ派に寝返らせなかった。
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これを見たチンギス・カンはすぐに矢を抜かせたが、出血がひどくなりブジルは悶絶してしまった。そこでチンギス・カンは牛の腹を割いてその中にブジルを横たわらせたところ、ブジルは復調し一命をとりとめた。これはモンゴル高原でよく知られた緊急医療法であり、清代に至ってもモンゴル高原で用いられた記録が残っている。
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帝位継承戦争の勃発以前、ムングスズはモンケによってブジルとともにジャルグチに任ぜられていたが、ブジルは帝位継承戦争の開始後、アリク・ブケ派に与しようとしていた。これを察知したムングスズは自らブジルを見張り、遂にアリク・ブケ派に寝返らせなかった。ムングスズがクビライに推挙した皆極めて優秀であり、ある時クビライはジャライル部のアントン・ノヤンとともに丞相に任じようとしたが、ムングスズは辞退したという。
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そこでネルゲイは弓矢は自らが作ったものであると答え、その場で鳧を2匹射落とし、2本の矢とともにチンギス・カンに献上した。ネルゲイとノヤンはその後ネルゲイの住居に一度戻ったが、そこでノヤンはネルゲイの息子ブジルを気に入り、自らの娘を与えた。この一件を切っ掛けとして、ネルゲイとブジルの父子はチンギス・カンに仕えるようになった。
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そのため、『集史』では下級千人隊長を省力して上級千人隊長のみを記しているのであり、『モンゴル秘史』にあって『集史』にない人名の多くは省略された下級千人隊長であると推測されている。例えば、『集史』はウルウト部の千人隊長について「4千人を率いる」ケフテイのみを挙げているが、『モンゴル秘史』ではケフテイの父ジュルチェデイと弟ブジルも千人隊長の一人として記されている。本来はジュルチェデイ、ケフテイ、ブジル全員がウルウト部の千人隊長であったが、『集史』では1227年時点で上級千人隊長であったケフテイのみをウルウト部の千人隊長として記したのであろう。
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この一件を切っ掛けとして、ネルゲイとブジルの父子はチンギス・カンに仕えるようになった。このブジルを『モンゴル秘史』功臣表の「不只児」に比定する説もあるが、村上正二はチンギス・カンの治世には未だネルゲイが現役であって、その息子ブジルが千人隊長として記される妥当性は低いと指摘している。ネルゲイ、ブジル父子はチンギス・カンの征服戦争に従事して戦功を挙げ、やがてネルゲイは「バートル」の称号を与えられるに至った。
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例えば、『集史』はウルウト部の千人隊長について「4千人を率いる」ケフテイのみを挙げているが、『モンゴル秘史』ではケフテイの父ジュルチェデイと弟ブジルも千人隊長の一人として記されている。本来はジュルチェデイ、ケフテイ、ブジル全員がウルウト部の千人隊長であったが、『集史』では1227年時点で上級千人隊長であったケフテイのみをウルウト部の千人隊長として記したのであろう。同様に、ムカリの親族であるトゲは「ムカリの3千人隊」の下級千人隊長であり、アルチ・キュレゲンの親族であるオラル・キュレゲンとチグゥ・キュレゲンは「アルチ・キュレゲンの5千人隊」の下級千人隊長であると推測されている。
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このブジルを『モンゴル秘史』功臣表の「不只児」に比定する説もあるが、村上正二はチンギス・カンの治世には未だネルゲイが現役であって、その息子ブジルが千人隊長として記される妥当性は低いと指摘している。ネルゲイ、ブジル父子はチンギス・カンの征服戦争に従事して戦功を挙げ、やがてネルゲイは「バートル」の称号を与えられるに至った。中央アジア侵攻における戦いでは、ブジルは力戦奮闘したためいくつもの矢を受けてしまった。
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