フリギドゥスの戦い
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ユニバーシティ・カレッジ・コークのデイビッド・ウッズは、テオドシウスが彼自身の野心と利益のために引き起こした不要な内戦が帝国の防御能力を著しく弱めたと分析している。特にフリギドゥスの戦いは西ローマ帝国の軍団を崩壊させ、軍団は短期間での大規模な再編成による質の低下を余儀なくされた。次第に西ローマ帝国の人々は、東方世界から来て西の宮廷に住み着いた西ローマ皇帝よりも、共に西ローマ帝国のために戦うフォエデラティに依存するようになっていき、最終的には西ローマ帝国の地に皇帝は不要であるとの判断を下した。
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こうした状況下で、エウゲニウス帝はローマ市の異教勢力の支持を集めたため、この事件は宗教闘争の様相をも帯びるに至った。これに対してテオドシウスは息子ホノリウスに西の皇帝を名乗らせると394年に西ローマ帝国に軍を進め、同年9月フリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破って帝国最後の統一を果たした。その後、テオドシウス1世は西ローマ帝国の首都メディオラーヌムを占領した。
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エウゲニウスの登位は、ローマの伝統的な多神教徒やその信奉者がいまだ多く残っていた元老院にとって、帝国のキリスト教化に抗しうる最後の機会であった。またフリギドゥスの戦いは、ローマ軍における外人部隊の増加傾向の現われである。元修辞学者であったエウゲニウスに代わり実質的な西ローマ帝国軍の指揮官であったアルボガステスはフランク人であり、テオドシウスの軍勢における主な将軍の顔触れも、のちにローマ軍の総司令官を経て西ローマ皇帝ホノリウスの摂政となるヴァンダル族出身のスティリコや西ゴート族のアラリックなどのゲルマン人であった。
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勝利したテオドシウスはローマの元老院を圧迫してローマの伝統宗教の廃絶と徹底弾圧に同意させ、ローマ帝国のキリスト教化を完成させた。だが、テオドシウスはフリギドゥスの戦いから4か月後の395年1月17日にメディオラヌムで急死し、あとには東の皇帝とされていたアルカディウスと西の皇帝とされていたホノリウスの幼い二人の皇帝が残された。日本ではこれをもって「ローマ帝国の東西分裂」と称されるが、兄弟間における帝国の分担統治はコンスタンティヌス朝やウァレンティニアヌス朝の時代から既に常態化していたものであり、テオドシウス1世の没後にローマ帝国の東西を政治的に再統一した皇帝が出現しなかった結果によるものである。
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エウゲニウスが西ローマ帝国で支持を集めるにつれ、テオドシウスの西ローマ帝国に対する影響力は弱まっていった。そこでテオドシウスは息子ホノリウスに西の皇帝を名乗らせると394年にイタリアに軍を進め、フリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破って西ローマ帝国の首都ミラノを占領し、ホノリウスを西の宮廷へ住まわせた。テオドシウスは没するまでの4カ月間をホノリウスの後見人としてミラノで過ごし、ローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。
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二人の間には長男エウケリウス、長女マリア、次女テルマンティアの1男2女が生まれた。そして392年、ウァレンティニアヌス2世が暗殺されるとテオドシウス1世の元で軍の一翼を指揮、ローマとの同盟を結んだ西ゴート族の族長アラリックとともにフリギドゥスの戦いで勝利を収める。奮闘したスティリコは西ローマ帝国の防衛の責任に足りうる人物としてテオドシウスから認められ、高位の軍司令官の一人として任命された。
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これに対してテオドシウスは393年に9歳の息子ホノリウスを「アウグストゥス」であると宣言して西ローマ帝国へ侵攻、394年にフリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破って西ローマ帝国の首都メディオラヌムを占領した。西ローマ帝国を征服して4か月後の395年1月17日、父テオドシウス1世が死去した。
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フリギドゥスの戦いとして伝わる決戦では、ジュリア・アルプス山脈の通過点にあるウィッパコ川の畔で戦端が開かれ、おそらくアラリックはこの戦役でアドリア海の最奥部に位置する北方辺境部にある、イタリア半島を守るこの自然の要塞の弱さを学習したのであろう。
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このときガイナスの部隊には若きアラリック1世も属していた。テオドシウス1世はフリギドゥスの戦いに勝利した4ヶ月後の395年1月に遠征先のイタリアで没し、ヴァンダル族の将軍スティリコに後事を託した。
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西ローマ帝国ではアルボガストによって元老院議員のフラウィウス・エウゲニウスが西の皇帝に擁立された。アルボガストとエウゲニウスは異教の復活を企てたが、しかしエウゲニウスを認めないテオドシウス1世に北イタリアのフリギドゥスの戦いで敗れ、アルボガストは自殺した。こうした状況下で、エウゲニウス帝はローマ市の異教勢力の支持を集めたため、この事件は宗教闘争の様相をも帯びるに至った。
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彼の昇進の望みは絶たれたものの、西ゴートが下モエシアに定住する間に、反乱の期が熟していった。ゴート族はフリギドゥスの戦いで大損害を被った。同時代の噂によれば、西ゴートの兵を戦場の矢面に立たせることが、ゴート族を弱体化させる都合のよい方法だったのである。
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東ローマ共同皇帝テオドシウス1世は西ゴート族をフォエデラートゥスとしてトラキアへの定住を許可した。この頃、東西ローマ帝国は激しく敵対しており、西ゴートのアラリックは西ローマの帝位簒奪者エウゲニウスと東皇帝テオドシウスとのフリギドゥスの戦いでテオドシウスを支援した。西ゴート族のアラリックはギリシア、イタリア、ローマへ侵略した。
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テオドシウスは、ウァレンティニアヌス2世はアルボガストによって殺害されたのだとしてアルボガストを批難し、息子ホノリウスに西の皇帝を名乗らせると、394年にイタリアへ侵入を開始した。アルボガストはエウゲニウスや元老院議員らとともにテオドシウスを迎え撃ったが、フリギドゥスの戦いで敗れ、まもなく自刃した。トリーア伯のは彼の子孫の一人と考えられている。
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また、娘のガッラは交友があった小ニコマクス・フラウィアヌスと結婚、夫妻は娘ガッラをはじめとする多くの子を儲け、ガッラはクィントゥス・ファビウス・メンミウス・シュンマクスと結婚、クィントゥス・アウレリウス・シュンマクスが生まれたという。小ニコマクス・フラウィアヌスとその父ウィリウス・ニコマクス・フラウィアヌスはテオドシウス朝の初代皇帝テオドシウス1世と対立したエウゲニウスに仕え、394年9月5日から6日のフリギドゥスの戦いで大ニコマクスは敗れ自殺、小ニコマクス・フラウィアヌスは生き残った。小ニコマクス・フラウィアヌスの兄弟にウェヌストゥスがおり、親族にアッピウス・ニコマクス・デクステルがいる。
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また、ウァレンティニアヌス2世を自殺に追い込んだか殺害した疑いがアルボガステスにはかけられたが、3ヶ月の空白期間にテオドシウスがなんら行動を起こしていないことからも、殺害容疑はアルボガステスとの対立が明らかとなったのちに加えられた罪状と推定されている。その後テオドシウスはコンスタンティノープルから軍隊を率い、フリギドゥス河畔でエウゲニウス・アルボガステスらの率いる西ローマ帝国軍と対峙し、394年9月5日に「フリギドゥスの戦い」として知られる会戦がはじまった。隘地に籠城する西ローマ帝国軍を圧倒的な大兵力を擁した東ローマ帝国軍が包囲する形であった。
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