テオドシウス法典
全て
名詞
16 の例文
(0.00 秒)
-
この時、あまりにスキリア族の人間が多いので、反乱防止のため広い範囲に散らすように送られたという。この事件はテオドシウス法典の中に記録されている。アッティラのもとでフン族の威勢が頂点に達したころ、スキリア族は彼の元で強力な歩兵部隊として仕えていた。
...
-
古代ローマは紀元前450年に十二表法として最初にコンスティチューションを集成単一法典化した。それに一連の法律を追加をしつつ運用され、再びローマ法が一つの法典に構築されたのは紀元後438年のテオドシウス法典のことである。その後、東ローマ帝国の「ローマ法大全」はヨーロッパ全体に大きな影響をもたらした。
...
-
これはテオドシウス2世のテオドシウス法典に盛り込まれていたもので、アラリック2世の聖務日課書にも収められていた。
-
代わりに、西洋帝国の崩壊と、旧ローマ国家の下という背景下で、支配階級は、テオドシウス法典に基づいてゲール語とゲルマン法を施行した。ローマ法廷制度が崩壊して以来、法律上の紛争は、堅実な法的手続の中で育まれた弁護士集会、証言に大きく依存していた口頭審理に依るところ、ドイツの慣習法を参考にした判決を受けた。
...
-
この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった。
-
-
テオドシウス法典研究会によって、コンスタンティヌス帝が発布したとされる法令の全訳および注釈がなされている。
-
古典期の法はいわゆる卑俗法に取って代わられた。ガイウス、ウルピアヌスなど古典期の法律家の著作やテオドシウス法典はまだ知られていたものの、その内容はあまりに高度であると考えられ、ゲルマン的慣習に適するように書き換えられてしまった。その結果、アラリック抄典などが編纂された。
...
-
また、古典ギリシア語においてもこの語の用例は確認できていない。最初の用例は1743年にゴドフレドゥスが校定したテオドシウス法典の巻末付録に見出されるという。実際の作業は総合的な経歴調査である。
...
-
この法典は混乱していた法源を整理しようとしてテオドシウス2世が編纂させたものである。これ以前にも3世紀末に『』や『』などの勅法集があったが、それらは私撰の勅法集で、『テオドシウス法典』は初めての官撰勅法集だった。
...
-
まずテオドシウス2世の幼少期に、オリエンス道長官アンテミウスの指揮により第一段階の城壁建設が行われた。ただしテオドシウス法典によれば、この工事は413年に完成したとされているのだが、1993年の発掘調査の結果、この工事は9年を要したことが分かり、したがって着工は先帝アルカディウスの治世中の404/5年であったことになる。この第一段階の城壁は1重の壁と塔で構成されていた。
...
-
この法典は古典期からユスティニアヌス1世期までのローマ帝国の法律について知るための貴重な資料となっている。テオドシウス法典は東ローマ皇帝テオドシウス2世が編纂させたローマ法の法典である。東ローマ帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものであったが、古代ローマの法律は極めて複雑なものであり、全く整理されていなかった。
...
-
このことによる弊害は共和政ローマの頃から存在しており、制定されたものの忘れ去られた法律も多く、たとえばガイウス・ユリウス・カエサルなどはすっかり忘れ去られていた法律を持ち出して活用し、政敵を罠にかける名人であった。こうした混乱を是正するため過去には『』『』『テオドシウス法典』等が編纂され、特に『テオドシウス法典』は法の混乱を相当に改善したものであったが、ユスティニアヌス1世の時代は『テオドシウス法典』の発布からも90年が過ぎており、法体系の再整備が必要とされていた。ユスティニアヌス1世は法務長官トリボニアヌスやテオフィルスをはじめとする10名に、古代ローマ時代からの自然法および人定法の布告、帝政以降の勅法を編纂させ、『旧勅法彙纂』全10巻として529年4月27日に発刊させた。
...
-
テオドシウス2世は「能書家」というあだ名の通り書に優れていた教養人でもあり、神学や学問の方面に熱中して政治を顧みなかった。政治は重臣が行ない、その在位中に「テオドシウスの城壁」と呼ばれる難攻不落の大城壁建造による首都コンスタンティノポリスの防衛強化や『テオドシウス法典』の整備など、東ローマ帝国の基礎が作られたのである。
...
-
法典はコンスタンティノープルでは用いられたが、その他の地域には浸透しなかった。西方領土では引き続き『テオドシウス法典』が用いられ続け、東方領土の地方都市では一世紀もすると法典が忘れ去られて司教を仲裁人とした法廷での調停が好まれるようになった。しかし、これら法典は8世紀以降にも幾度か手が加えられながら、帝国の基本法典であり続けた。
...
-
テオドシウス法典は、東ローマ皇帝テオドシウス2世が編纂させたローマ法の法典である。