ズジスワフ・ヤヒメツキ
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妹エミリアの14歳での死因も結核であり、また父も1844年に同じ病に倒れることになる。ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキによれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。なぜなら、ショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。
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しかし、上記のようにニコラは故郷フランスを捨てたわけではなく、息子フレデリックの洗礼証明書では「フランス人」と記録されているうえ、家族の間では「ニコラ」の名を使い続けたなどことから、ニコラがポーランド人として同化したというウォパチィンスキらポーランドの研究者の説は疑わしい。また、ニコラがフランスから持ってきたフルートとヴァイオリンをよくしたというズジスワフ・ヤヒメツキらの指摘は、ニコラがヴァイオリンを始めたがうまくいかず家族の笑いものとなっている、という姉ルドヴィカの1835年2月9日付のフレデリック宛の手紙から否定されている。
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