サラワケット
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名詞
16 の例文
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直線距離にすればラエからキアリまで120キロであるが、ジャングルや湿地帯や断崖峡谷を越えて、道なき道を進むとすれば、距離は2倍から3倍にもなると予想せねばならない。日本軍の中には過去に一度サラワケット山系を越えた小隊がいた。
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初めの十日ほどは糧秣も割合に続き、地形もよかった。それからサラワケットの峻峰にかかった二週間は全くの地獄であった。糧秣もなくなった。
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「いまから考えても身の毛がよだつほどの“死の行進”であった」と、中野中将は回想するが、すでに弱りきっている第五十一師団将兵にとって行軍は負担が多すぎた。サラワケット山の急斜面にかかるまでに、約二百人が倒れた。食糧は乏しく、しかも連日豪雨におそわれた。
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中野中将は、約四千メートルの高峰サラワケットをこえて、北岸に避退することにした。九月二十二日、第五十一師団はサラワケット山に分け入った。白いアゴひげにおおわれ、乃木将軍に酷似した中野中将は、一本の杖にすがって身を運んだ。
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私は日本へ帰ったら、遺体の整理を呼びかけることを約束し、リーキ・筆子さんと別れ、ポートモレスビー行きの飛行機に乗った。機がラエ空港を離陸すると、海抜四千メートルのサラワケット山脈が右手すなわち北側に見えた。この山中には日本兵の死体がまだ残っているという。
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頭の上に、眼の前に敵を控えて砲煙弾雨のうちに散るならば、幾万の英霊が一度に護国の鬼と化そうとも、それは戦場の常であるが。サラワケットの嶮を越え、北岸の〇〇〔マル二つ〕に着いたのは四十日目の十月下旬であった。ここでわれわれは糧秣の補給を受け、細々ながらも補給線開拓の目的を達した。
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安達中将は、後退を援護するために、第二十師団の一部をマダンから派遣する、とも伝えてきている。中野中将は、約四千メートルの高峰サラワケットをこえて、北岸に避退することにした。九月二十二日、第五十一師団はサラワケット山に分け入った。
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八月二十四日、第五十一師団長中野中将は玉砕を決意して、最後の訓示を伝達したが、安達軍司令官は、第五十一師団にラエ北方百キロのキヤリ海岸へ撤退することを命じた。このため第五十一師団の残兵は、海抜四千二百メートルのバンゲッタ山を主峰とするサラワケット山脈を越えてキヤリに向った。そして、飢餓とマラリアと高山の寒さのため二千人がこの山中に倒れた。
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ジャングル越えが始るとともに、われわれは新たなる敵ジャングルと戦い、生きること自体が如何に困難であるかを体験した。暗黒の大陸といわれるニューギニアにはさぞかし猛獣や毒蛇が棲息しているだろうと想像したのであるが、ラエ西方からサラワケットの峻峰を越えて、ニューギニア北岸へ辿り着くまで、約四十日の間、動物と名のつくものには、たった一度野豚に出逢っただけである。野生の動物さえ棲息しない程、食物も何も無いところで、深海の底のような、超高空の成層圏のようなのがこの方面のジャングルである。
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日本軍は1日の行程を16キロと予想し、サラワケット山系を越えてキアリまで16日間と見込んだ。各人が持てる食糧は10日分が精一杯だったが、これを食い延ばせばなんとかなるという計算だった。
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また、日本軍が南東方面の確保すべき要域として戦闘が続いていた東部ニューギニアのラエおよびサラモア地区も、9月4日、ラエの東方ホポイに連合軍が上陸、その北方には空挺部隊が降下し、この結果ラエの日本軍はサラモアを迂回しワウ付近から北上する連合軍部隊との間で三方から包囲される体勢となった。これによりラエ、サラモア地区は急速に事態が悪化、周辺地域から後退しつつラエ付近に集結した日本軍守備隊は一路サラワケット山脈を越えてフォン半島北部のへ転進を決めた。しかし連合軍の攻勢は止まず、9月22日にはそのフォン半島の先端部北部に位置するに上陸、その南方の半島先端部の要衝フィンシュハーフェンへと迫った。
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第51師団長中野英光中将は一時は玉砕を決心したが、第18軍の安達二十三軍司令官は玉砕を許さず、第51師団に対して転進を命じた。転進経路としては、マーカム川を遡りマダンに至るルートと、フォン半島の脊梁山脈であるサラワケット山系を越えて半島北岸のキアリに至るルートとが考えられた。前者は、制空権を奪われている状況では、マーカム川沿いに降下したオーストラリア軍に側面を衝かれ全滅させられる危険がある。
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兵は何日か振りの飯と粉味噌と塩をもらい、ようやく生き返った。ラエ出発から3週間の10月5日にキアリに到着した北本工作隊は救援隊とともに引き返し、現地人ポーターとともにキアリからサラワケット頂上近くまで捜索し、落伍していた将兵の生存者を収容しポーターが担いで山から降ろした。最後の兵が現地住民に背負われてキアリに到着、野戦病院に収容されたのは11月15日になった。
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既に乏しき我が糧に 木の芽草の根補いつ 友にすすむる一夜は 「サラワケット」の月寒し この第五十一師団の軍歌「サラワケット越え」の一節に、当時の悲境がうかがえる。安達中将は、第五十一師団の先頭がサラワケット山をこえてキヤリ部落に達した、と聞くと、直ちにキヤリに司令部を進め、毎日、よろよろと密林からあらわれる将兵を、泣きながら出迎えた。ガダルカナル島の戦いは、飢えと病魔の二重苦の戦いだといわれる。
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約千人とも、約二千人とも、いう。既に乏しき我が糧に 木の芽草の根補いつ 友にすすむる一夜は 「サラワケット」の月寒し この第五十一師団の軍歌「サラワケット越え」の一節に、当時の悲境がうかがえる。安達中将は、第五十一師団の先頭がサラワケット山をこえてキヤリ部落に達した、と聞くと、直ちにキヤリに司令部を進め、毎日、よろよろと密林からあらわれる将兵を、泣きながら出迎えた。
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