カミーユ・デュ・ロクル
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ヴェルディは既に1847年に『イェルサレム』、1855年に『シチリア島の夕べの祈り』をそれぞれオペラ座の依頼によって作曲していたが、いずれの作品も決定的な成功には至っておらず、パリでの決定的な成功を望んだヴェルディの思いも、この契約には関わっていたと思われる。台本はベテラン作家フランソワ・ジョセフ・メリが手がけることに決まったが、メリは着手直後に病死してしまい、メリの秘書で、義理の息子でもあったカミーユ・デュ・ロクルが後を引き継いで台本を完成させた。台本完成後、ヴェルディは自宅で作曲に励んだが、喉の病気の悪化などで完成が遅れて契約での期限に間に合わず、結局全曲の完成は1866年12月であった。
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その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽を書くことには慣れておりません」といって断っている。結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて伝えてきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。
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