さく柄
30 の例文
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で、わずかな給金をね、食うものも食わず、着るものも着ずに倹約して、奥方の在所に送ってらしたに違えねえんです。話しながらふと真顔になって、今年の作柄のことをお訊ねになりやした。
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凶作という自然がもたらした難局が相手ということでは同情の余地があるものの、治憲はいささかこころもとない思いをすることがあった。加えて今年の米の作柄はどうかという今日ただいまの心配がある。幕府に参府延引の願いを届け出た三月下旬の気候は、特に凶作を予想させるほどに悪いわけではなかった。
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治憲は蓑笠を着て馬上に濡れそぼっている頼元から目をそらした。作柄の見通しを言うことを避けた頼元の返事は、気にいらないものだった。だが目の前にひろがる光景は、返事のとおりにただならないものに見えた。
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thumb|left|200px|掲げられた旗綾部神社では毎年7月15日に謹請風神御祈祷守護之璽と書かれた幅1尺、長さ1尺2寸の麻で織った神旗を長さ18メートルの真竹に結び付け、締め込み姿の3名の神旗人と呼ばれる男衆によって神社境内のイチョウに高さ30メートルになるよう掲げられる。旗上げから5日後には台風の襲来、農作物の作柄などを宮司が予想する。また、旗下ろしは秋分の日の翌日に行われ、神旗をイチョウから下ろして旗の巻き具合などを観察し、予想の結果の確認を行う。
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この出来事が、現在の成人への通過儀礼や豊作祈願の行事へと変化したという。また、主食であるヤムイモの作柄を占うために始まったとも言われる。
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日照不足と長雨による影響で米の作柄が心配されるようになった。結果として、この年の日本全国の作況指数は「著しい不良」の水準となる90を大きく下回る74となった。
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男たちは、羅紗の上衣に窮屈そうにからだを包んで、このほうは遠慮のない歩き方でやってくる。二人ずつ並んで、作柄の話かなにかをしながら。シコと女房は、気もそぞろに、せつながりながら、彼らを迎えた。
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国信の弟子入りした師匠も、もとをただせばこの国輝の門下につながる人物であったという。ただし作柄は師匠筋に似ず、刃文は直刃が多く、脇差、平作り脇差をよくした。それはそのまま、国広、国信の作柄へと受け継がれている。
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なぜでしょうか。雫石という村が、例外的に作柄のよい土地だったのでしょうかね。これはたいへん興味深い問題です。
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伊左衛門、と綱島頼元を呼んだ。「今年の作柄をどう思うか」 頼元はすぐには答えなかった。笠の先を少し押し上げるようにして、長い間稲田を眺め回してから言った。
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小河原虎吉が、開窯。日用品を意識して製作されたものが多く、無駄な飾りや技巧を省いた質素な作柄で知られる。
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また、十村には槍や鉄砲などの武器が与えられ、逆らう農民の殺害も許されていた。それまで税率は作柄により変動していたが、利常はこれを改め税率を固定した。これを「定免制」と称する。
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もし十年前に書かれていたら私小説になっていたかもしれない。「冬のかたみに」の作柄が私小説と異るとは、誰もが認めるだろう。立原正秋はかねがね、私小説はいくら傑作でも感想文に過ぎない、と貶していたが、確かに自分の過去を感傷を交えてめんめんと語る私小説の語り口は、ここにはない。
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豆を並べて焼き、焦げ具合からその年の作柄や月ごとの天候を占う。文献での初夢の初出は、鎌倉時代に西行が著した『山家集』巻上の「年くれぬ 春くべしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢」である。
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そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。
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四月末に治憲が帰国したあとも、七月の下旬に大雨で川水が氾濫し、治憲自身が人家の流出した割出町に出馬し、水防の指揮をとるということがあったほかは、領内は災害もなくおだやかに推移し、やがて九月に入ると、この年の稲の豊作が確定した。稲の作柄がいい年は、ほかの農作物もおおかたは出来がよい。治憲はひさしぶりの豊作をよろこんで、遠山村の籍田の稲が刈取られると新米で餅を搗かせ、これに酒をそえて奉行以下諸役人に配った。
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最初に訪ねて行つた家で逢ふことの出來た青年のSは、この夏父に死別して一家を双肩にになふことになつたばかりの人だ。私は挨拶がすむとすぐに今年の作柄について聞く。百姓との話の最初に作柄を聞くのは禮儀のやうなものであらう。
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寛永3年は凶作で多くの餓死者が出て、同7年もかなりの不作だった。しかし、定免法が適用されたため、作柄相応に減免されなかったために多くの未進米が発生した。未納分に対しては年利5割の利息が付けられ、それらの取り立てが翌年、翌々年に厳しく取り立てられた。
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この弾糸は内部にバネ状の構造があり、乾燥すると伸び縮みして胞子を跳ね飛ばす役割をする。造卵器が茎の先端や葉の間に造られる場合、さくは白くて柔らかいさく柄を伸ばしてその先端につく。ゼニゴケ類では、植物体からキノコのような傘状の構造を伸ばし、その傘の下面に生殖器官をつける。
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その上で家屋補償では建築技師に1軒ごとの測量と製図、家屋の材料を吟味させて補償価格を決定。農地と山林については作柄に応じて坪単価・用材別単価で価格を算定した。また流筏業者を始め、ダム建設によって転業や廃業を余儀なくされる住民には推進本部に所属する社員が木目細やかな対応を行い、就職先斡旋や生活設計相談に応じた。
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このとき地元新聞の編集主幹だったW・L・ソーンダイクは、来るの告知をしたいと考えていたが、そのために彼が頼ったのが農夫のジョセフ・スワンであった。スワンは70種類以上の品種のジャガイモを育てたことで有名で、以前にも複数の新聞が彼の農園の作柄のよさを取りあげていた。地元の写真家アダム・タルボットの協力をえて、ソーンダイクたちは1枚の写真をでっちあげ、それが1895年に『ラブランド・レポーター』誌に掲載された。
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長崎貿易で物を言った銅や、三陸の塩干物を詰めた俵物、ことに大豆は虎の子だった。もともと米の作柄は大したものじゃあねえんですけど、南部大豆といやァ大坂の相場を左右するほどの名物でした。たとえ米が不作でも、大豆はそこそこに収穫できやすから、こいつの高売りをするてえのが、どうも次郎衛様のお役目だったらしい。
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すでに暮らしは彼らよりも楽であった。かりに家が火事で焼けたり、作柄が思わしくなかったりしても、それ以前とほとんど変わらない暮らしをしていたことだろう。私はいつも、人間が家畜の主人であるというよりも家畜の方が人間の主人となっていて、前者、つまり家畜がそれだけいっそう自由だと思っている。
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実際には、品種、土壌、気候条件の違いを栽培技術や収穫時期の最適化で補うことで、広い地域で栽培が行われている。その年のブドウの作柄のことをヴィンテージと呼ぶ。転じてブドウを収穫した年のことをヴィンテージと呼び、その年の出来不出来によってワインの出来が変わる。
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覆損使とは、稲の作柄不良の際に、損田の調査にあたった国司のことと推定されている。水旱虫霜などの自然災害により損害が発生すると、『賦役令』により、国司が太政官へ申上することになるが、慶雲3年9月20日の勅令によると、損戸49戸までは国司の実際の検分ですまし、50戸以上になった際に太政官に申告、300戸以上になったら奏聞し、ともに期限は9月30日までに行うと決められていた。
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地方出身の女子学生が都会の大学生に恋をするが、相手の振舞に蹤いて行けずに挫折し、郷里へ帰って小学校教師になるという筋立のものであったらしい。抒情的な作柄が想像されて、今遺っていれば面白いのだが、その原稿は研究会の機関誌に載せるとの約束が実現しないうちに紛失してしまった。あれは幻の処女作になった、と立原正秋は後のちまで残念がっていたそうだが、入選によって、彼が将来への一つの手応えを覚えたのは確かだろう。
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けれども、この小さい一篇は、この作者が数篇の小説に於て所謂買われて来た面を破綻的に現していることで注目に価する。「希望館」とこの「父たち母たち」とでは作柄が違って見えるが、根本的な傾向として抽象的に人間性を取り上げている点では同じ性質の二作なのである。プロレタリア文学が辿って来た発展の歴史を省ると、この人間性の抽象的な尊重という傾向は、ソヴェトの文学運動の過程にもかつてあったことである。
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鮮魚として消費地に届けるための冷凍・冷蔵技術がなかったかつては、魚油や肥料用の干鰯が主であり、「食スルハ千分ノ一ナリ」といわれた。かつて九十九里浜の鰯漁況が全国の米の作柄を左右するともいわれたが、明治以後は、北海道の鰊粕にその座を譲った。
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