こし入れ
全て
名詞
18 の例文
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いや、すでにこの国もとにおいても、江戸屋敷においても、中奥の費用はかなりのものなのだ。たとえば江戸でだが、妻がおこしいれの時に連れてきた侍女たちがいる。妻は対外的に大切なお飾りであり、侍女たちをへらすわけにはいかない。
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余分な櫓を船外に引きずり出していたところ、背後から何者かが足音を忍ばせ近付いてくるのに気付いた。輿入れのことは、こうすると決めたときから過去のものになっている。疎ましくも思い、背後から無言で近寄る者への戒めだと、振り向きもせずに後ろに蹴りを放った途端、蹴り馴染んだ腹である。
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男の目は真剣だ。約定を破ったにもかかわらず、輿入れの話を反故にはしないということだ。侠気あるいは男気といった美徳は、何も男が占有するものではない。
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翌日輿入れが行われ、婚礼道具は112棹に及ぶ大規模なものであった。しかし直弼の大老就任と時期が重なったため、花嫁の父が急に欠席する事態となった。
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そして、これがさらに群馬県のあるお百姓に輿入れしたことになっています。間違いなくこの品です。
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なんといっても、近江屋は土地の旧家であるから、同業者は勿論、町内の人々も祝いに来て、二、三日前から混雑していた。いよいよ輿入れという日の前夜に、お妻は文次郎を呼んでささやいた。
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それはさほど珍しいことではない。輿入れ前の紋は女紋と言って、姓が変わっても使用することが許されている。伊三次もそのことには格別、不審な気持ちを抱かなかった。
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天正10年6月、徳川家康に臣従した穴山信君は武田親族衆の秋山氏の娘である於都摩の方を自らの養女として徳川家康に輿入れさせた。徳川氏に対して松姫の身代わりとして輿入れされたという伝承がある。後に徳川家康五男の武田信吉を産む。
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つづいて加賀の前田宰相、安芸の浅野少将が登城して西丸に急ぎ参向する。この二家は大御所がお美代の方の腹に生ませた姫を輿入れさせている。子福者の家斉は子女を縁組みさせた大名が多い。
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彼女は十八歳で輿入れしてこのかた九年のあひだ、まだ一人の子もなかつた。それは一に彼女の病弱に帰せられてゐた。
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この若君は、まぎれもなく徳川家のお世継ぎだと思い、おふくは改めて血が騒いだ。同じ乳母でも、姫君では成長の暁には他家に輿入れをすることになる。乳母というものが、単なるお乳の人ではなく、その養育の責任者であり、場合によっては成人の後も奉公を続けることが出来るとお城へ上ってみて、おふくは知った。
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「すると、わが高地の国が賜る皇女は、安善公主殿とおっしゃるのか」 正規の外交使節らしく型通りの挨拶を交わした後、ラムポ王は徳秀を私室に招き、二人は四年ぶりに親しく話をした。その席で王は輿入れする皇女の名を、初めて徳秀から聞かされたのだった。花嫁が皇帝の娘分でありさえすれば、名前はもとより年齢も容姿も不問の縁組である。
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子は昨日のことのように、婚礼の夜を思い浮かべた。疱瘡の痕のみにくい子を、父が恥じて妹八重を身代わりに輿入れさせた。が、幼い時から子と許婚者だった明智光秀は、八重には手も触れずに返し、改めて子を娶ったのだった。
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藤吉郎が最後にお市様を見たのは、七年前、お市様十七の時の春であった。お輿入れになるために、馬にのり、被衣をかぶってお出でる姿を見たきりだ。被衣の召しようがうんと眉深であったので、お顔はわからなかった。
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これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入れの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。これが後の「あやかしの鼓」であった。
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で、思い浮かぶのは、紀子様だ。あのかたの一番素晴らしいお輿入れの道具もまた、あの太陽のような笑顔であった。知っていてほしい。
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道三の娘濃姫こそ光秀の弱年のころの理想の女性であり、しかもイトコ同士というつながりから光秀の許へ、という佳き縁談も一時はあったと光秀は聞き及んでいる。それが「尾張のたわけ殿」といわれていた信長のもとに輿入れしてしまった。以来、信長は光秀にとってある種の感情を通してしか考えられぬ存在になった。
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