こくだか
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名詞
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領知目録とは、江戸時代に所領の宛行・安堵を行う際に領知判物・領知朱印状に添えて同時に発給される目録。与えられる所領の属する国郡ごとの村数・石高及び村名が記されている。米が取れないために特別な規定を持つ蝦夷松前藩以外の全ての大名と一部門跡寺院に出される。
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やはり黒板塀の門ですが、あまり大きくはありません。亀井家が四万三千石でしたから、それよりも石高が少かったのでしょう。でも御内福だという噂でした。
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また、池上裕子は太閤検地での斗代・分米が鎌倉時代の荘園制のそれとほぼ近似していることを指摘しており、ほとんどの場合この石高から「免」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。ただし、出羽国の石高は明らかに異常で、極端に過少である。
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宝暦6年島津重豪の藩主就任時に、薩摩藩国目付になった京極兵部高主、青山成親らに提出するために宝暦6年10月に改めた薩摩藩分限帳では「小納戸役、大山文左衛門 71石 外蔵米48俵」として登場。この時には、通称が文左衛門になり、石高は71石になっていたようだ。なお、子の大山綱道も「大山休左衛門」として同資料に登場。
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これに対して府藩県は、早い所では明治2年中に、遅いところでも明治3年には報告書を提出した。府藩県三治制下の全国の石高をまとめた資料としては以下のものが存在する。
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以下の表にその詳細を示すが、それによると幕末には石高換算のGDPは1億石を超えていたと推定され、石高は実体経済の3割前後しか反映していなかったことになる。このように時代が下るにつれ石高と実体経済の乖離がますます進行した。上記のように日本の総石高は天保期において3055万8917石を計上したが、天保13年における所領別石高は以下の通りであった。
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内高は、江戸時代の大名や旗本の所領内において、領民に年貢を課す際の算定基準として用いられた石高のことである。将軍に認められた額面上の石高である表高に対する語で、実高ともいう。表高は江戸幕府公認の検地によって算定された石高だが、実際の藩内では17世紀に進んだ新田開発や、農業技術の革新による生産力の増大に基づいた藩内検地、専売制による特産品の税高改定などによって、多くの藩では内高は表高を上回って増大していた。
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雨がぽつりぽつり落ちて来たので、三人は石高な道を急いで宿へ帰って来た。
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江戸幕府は石高制によって大名の所領規模を簡単に把握できるようになり、加封・減封・転封や飛地の処理も簡単に行えるようになった。また、大名に課する負担や幕府役職の任免も石高に応じたものとなった。一方、大名も自己の藩において石高制を採ったが、家臣を所領である給所には住まわさず、年貢徴収や人夫動員も藩中央が行った。
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このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いた。特に領民の場合には「百姓高所持」、武士の場合には「石高知行制」と称されることがある。
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相まって、朝日村周辺郡部などにも拡散している。江戸時代は当初松本藩に属していたが、後に石高の調整で高遠藩に属した。現在では新興住宅地建設による外部からの移住者も多く見られ、村の景観も大分様変わりして来ている。
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なお、大内氏時代の山口には、1551年に大内義隆がフランシスコ・ザビエルの滞在とキリスト教布教を許したため、日本初の南蛮寺でクリスマス行事が行われるなど、西洋の文化も流入していた。大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。
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指出は、仙北地方の慣例にしたがって苅高とし、それを一定の換算率により永楽銭の貫高に改め、年貢は銭納とした。しかし、最終的には石高に換算しなおし、他の地方との統一が図られた。諸史料によれば、8月末ころまでには概ね仙北・秋田地域の仕置がすすめられ、実際の検地は9月に実施されたと考えられる。
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義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動したが、転封に反対して車斯忠らが一揆を起こしている。佐竹氏の石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代になってからである。織田信忠の遺児で、幼名三法師とよばれていた織田家嫡流の織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となった。
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慶憲の生母・季遠姫はこれを嘆いて憤死したとも自殺したともいう。将軍の子が藩主になったことで、藩の石高は6万石から8万石に加増された。しかし、斉宣はさらに10万石への加増を老中らに求めたといわれ、この要求によって8万石でありながら10万石格という複雑な事態が発生した。
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江戸時代の敷知郡島之郷村が、現在の曳馬の全域にあたる。当時の村全体の石高は四百三十二石で、高林村や早出村とほぼ同等である。明治22年の町村制施行により曳馬下村となり、昭和9年に浜名郡曳馬町となった。
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兜や鎧などの装備品。装着することでパラメータが上昇するが、コストである石高も上昇する。デッキシステムはファミスタオンラインのそれに類似する。
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