くり石
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結局少なくとも銀貨1枚が行方不明のままに旧国宝に指定され現在に至っている。なお塔心礎の柱座の周囲には栗石の残骸があり心柱の柱脚を支えていたと考えられるが、これも破壊されて詳細は不明である。出土した納置品は盗掘や再納置の痕跡がなく、塔の創建と同時に納められたものと考えられ、その制作年代から塔の創建時期について考察されている。
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川田はゆがみっぱなしになっていた首を闇屋のリュックサックからもぎはなして頭をふるった。三人ともほとんど一瞬のうちに栗石のうえへとびおりた。つぎからつぎへと人が降ってきた。
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一般に、穴の底には排水管を通して流れてきた水を自然排水するための層を作る。具体的には一番下に栗石などを敷き、その上に砂を入れる。砕石や瓦を入れてもよい。
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顔をよせると靴からひきぬいたばかりの足のうらのような匂いがした。シャツごしに栗石が背や腰に食いこんでくるので、寝ていても、たえず体の向きを変えなければならない。ちかくの廃線の草むらにとめた冷凍貨車から腐った魚のたまらない匂いがただよってくる。
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形も子供の掌一杯ほどの平べったい石があるかと思うと、文鎮にしてもよいような、どっしりと坐りのいい石もあった。砂利道といっても小砂利だけではなく、栗石や玉石が交じっていた。玩具や人形などを買ってもらった記憶はないが、これらの石をエプロンに幾つか入れて、縁側の床の下に、私はよくこっそりと隠しておいたものだ。
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砂利は、粒径が一定の細かさをもつ丸みを帯びた石。より細かい砂や比較的大きい栗石や玉石を含むこともある。岩石を破砕した砕石とは異なる。
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天守台の南と北には一段低い方形の張り出しが認められ、付櫓台を添えて複合天守が推定される。天守台斜面には、栗石が認められ周辺に大きな石も散在しており、当初は石垣を築いていたと思われている。
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自立式土留構造と比べて広い面積を要するが、構造物の厚さを薄くできることから費用は割安となる。多くの場合、水圧を逃すために背面に栗石層及び水抜きパイプを設置する。主に間知石、コンクリートブロック、石材等を用いる構造物が一般的である。
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アリが一匹手すりのうえをのろのろと這っているのが見える。線路の栗石と枕木のあいだに草が茂り、あらあらしく汗ばんでいる。はげしい陽にあぶられてしおれ、あえいでいる。
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また、金沢氏の菩提寺称名寺の庭園は金沢実時・顕時の代にひらかれ、顕時の子金沢貞顕の手によって修築造営がなされた庭園である。池泉舟遊式の浄土庭園であり、栗石や白砂などによって自然の海岸の景色が再現されている。大きな弧を描いた反橋が特徴的で、橋は、現世から極楽浄土への結界を表現している。
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特に金箔瓦は信長が安土城で最初に採用し、秀吉は一門の居城・徳川領を包囲する城・京都から名護屋城を繋ぐ街道沿いの寺社や城に見られ、パフォーマンス的要素が高いとしている。石垣を伴う城郭は観音寺城などが早いが、中井はこれらの石垣には裏込めの栗石を伴うものが無く、石積みと称するべきだとしている。その上で、栗石を伴う石垣の出現は岐阜城が最初であり、安土城で技術的に完成したとしている。
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裁判所の前には、騎馬隊が出動し、槍を持って断頭台を取り囲んだ。また、その士官が携帯しているピストルは、だれかがそれをひったくって、その士官を道路のくり石に叩きつけて殺そうと思ったら、その前に五、六十人の死人が出るだろうと思われるほどの恐ろしい武器だった。それでも、焦点を与え、権力のあからさまな象徴を示すほうが良いのである。
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王寺駅をでてしばらくしたらとつぜん汽車が深い渓谷と山のなかで停止した。なんだろうと思っているうちに線路の栗石のうえを駅員が走り、艦載機来襲、艦載機来襲と叫んで過ぎていった。たちまち硬直がほどけた。
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火災対策のため、木造からSRC造に変更している。自重増加のため天守台を補強することになりモルタルグラウトにより栗石を固めた。瓦を復元する際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集するなどしている。
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当初の計画では、大分県側の岸から砦の山際へと架橋していく筈であった。金網で作ったダルマ籠を川床に据え、これに栗石を詰めて橋脚とし、その上に丸太の橋桁を渡して簡易な仮橋とする計画であった。だが、流れの中央に筏の牆壁を置かれてしまった今となっては、ダルマ籠の橋脚では高さが足りなかった。
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また、天正2年6月17日には「殿主」において、三条西実澄から細川藤孝に、『古今和歌集』の解釈を中心に、歌学や関連する諸説を秘伝として師から弟子へと伝える「古今伝授」が行われるなど、勝龍寺城の天主は文化的な交流の拠点となっていた。現在石垣は北門の一部に残るのみだが昭和54年の発掘調査で石仏二体と石材数個、また大量の栗石が検出され、この発掘調査以外からも勝龍寺城の大半が石垣によって築かれたことが推定されている。また虎口部分が枡形虎口となっていることも明らかにあり、織豊系城郭であることが明確になっている。
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石室の石材は硅質砂岩・砂岩・珪岩からなる。玄室床面には栗石が敷き詰められ、その上に木棺が据えられたと見られており、発掘調査では石室内から副葬品が検出されている。この古津賀古墳は、古墳時代後期の6世紀後半頃の築造と推定される。
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翌11年に酒匂川西岸73カ村は小田原藩領から幕府領となり、復旧に取りかかった休愚は自ら創案した手法で堤防の改修を行った。丈夫な木製の枠に丸石を詰めた弁慶枠や、丸く細長く粗く編んだ竹籠の中に栗石や砕石などを詰めた蛇籠を作って、これを川の流れに沿って並べることで従来のものよりも強固な堤を築いたのである。後に蓑正高も普請事業に加わり、享保12年5月に工事は終了。
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日本では昭和初期ごろの的屋などがある意味いかさま師であったと言える。がまの油売りの日本刀で腕をちょっと切る見せ場やや「道端の小枝の先端に小石を紐でくくり石を上に枝を地面に刺すことなく立たせる」といった事で客寄せをして物品を販売した。如何様と書き、「さもその様に見える、いかにも本物らしい」といった意味で転じて「まがい物、偽物」と言うことを指す事から偽物を売る者といった意味もある。
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全体の形状は、川の上流に向かって凸型のアーチを描き、世界最初アーチ式ダムとも言われる。金名の郷頭がある谷は風化しやすい花崗岩で形成されているため、前後の川の底には栗石を敷き詰めた上に直径30-60cmの平な自然石を敷いて川底とし、谷が金名川の水流によって浸食されないように工夫されている。
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已むを得ず、九地建側は牆壁の向こう側に越えることは諦めて、この日の架橋を中央の岩から大分県側に向けて川の半分だけに止めることに再変更し、作業隊は再び川に入って行った。彼等が岩に辿り着き、直ぐ傍の川床を鑿孔機で掘りダルマ籠を据える作業を、砦の男達は岸から見守っていたが、作業隊が一列に並んでダルマ籠に詰める栗石を手渡しで運び始めた時、再び岩の周辺へと寄せて行った。以下は、後日この日の衝突が刑事事件となって取調べを受けた時の穴井武雄の検察調書からの供述である。
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道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった。フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した。
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仮飛行場はアスファルト舗装ではなく、栗石にサンゴの石粉をかぶせて固めたものであった。急患の時はこの滑走路で米軍機を用いて患者を輸送した。
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砂利は粒径と形状によって定義される。粒径がおおむね300mm以内の丸みを帯びた岩石は、小さい順に砂、砂利、栗石、玉石と呼ばれており、これらをまとめて砂利と扱うこともある。また、砂利は一般的には河川の上流部の岩石が風化作用で母岩を離れ、または流域の砂礫が浸食作用によって崩壊し、これが河川を流下しながら角が削り取られ丸み帯びたものをいう。
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同時期に、トーマス・テルフォードとジョン・ラウドン・マカダムという道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった。
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線路、枕木、草、栗石、石炭ガラ、すべての物にしみこんでいて、呼吸するたびにあたりいったいに魚の匂いがたちこめる。たった二日留置しただけなのだが、そうなってしまった。
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岩石など固体を目的の大きさまで細分化する場合、それを破砕・粉砕する目的で使用される。thumb|200px|right|モバイルクラッシャー 鉄道などの敷石、建築に使われる栗石、道路・土木に使われる砕石など特定の大きさを必要とする石を作成するために使われるものや、クラッシュアイスなど氷を砕くもの、固形燃料を作るため、廃材や石炭などを砕くものなど、用途、種類が数多く存在する。クラッシャーは、リサイクルや処分を容易にする目的で、廃棄物を破砕したり、形状を変えたりする際に用いられている。
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滑走路の舗装は戦後早速に米国兵が来て念入りに爆破して使用不能にしていった。飛行場跡は昭和27〜28年に乙川の農家の希望者に払い下げられ、滑走路にあった栗石は伊勢湾台風後の護岸工事や衣浦大橋の土台に使われたという。しかし使用不能になりながらも、この地区は市街化調整区域になっているため大きな開発が起こらず、滑走路の輪郭は残されてきた。
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