あと厄
全て
名詞
12 の例文
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地域や宗派などによっては61歳の還暦を男女共通で厄年とする場合もある。神社によっては、大厄のみに前厄、後厄を設け、小厄には設けない場合がある。また、地方に幅広く根付く風習でもあるため、単純に厄除け参りを行うだけではなく、地域を挙げての行事として祭りのように祝う事もある。
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「四十二の二つ子」といって、数えで父親が42歳のときに2歳の男児は、四二に二を加えると「四四」になることから忌み嫌われ、親を食い殺すという迷信があり、仮に一度捨てて人に拾わせて育てるなどの風習があった。いずれの厄年にもその前後1年間に前厄・後厄の期間があり、本厄と同様に注意すべきとされる。本厄の年に「厄祓い」・「厄除け」を行い、神仏の加護を受けて凶事や災難を未然に防ぐ慣習がある。
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時に陰惨な孤独が骨身に沁みることはあっても、まだそれを怺える力があった。併し四十三歳の後厄の年の春、血尿と悪寒を押して会社へ出ているうちに、過労から仕事先で倒れ、肝臓疾患で五十日余の病院生活をした。さらにそれから二年後の今日、こんどは虚血性心疾患の発作に見舞われ、医者から与えられる薬なしには、も早日を送ることは出来ない身になった。
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こういうのも一つの迷信の利用法だろう。それよりも傾聴すべきは、東西の厄年を総攬して、これに前厄と後厄を加えると、人生に厄年でない年は一年もなくなってしまうという日野九思の説である。厄年が多すぎてこれという厄年が存在しなくなり、何歳になっても今年が厄年なのだ。
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三河町一丁目の大元締、溝口屋鐘五郎の家は、その晩割れ返るような賑わいでした。親分の鐘五郎は四十三歳、後厄の大事な誕生日を迎えた上、新たに大大名二軒の出入りを許されて、押しも押されもせぬ、江戸一番の人入れ稼業になった心祝いの酒盛りだったのです。集まった子分は三十八人、店から奥へ三間ほど打っこ抜いて、底の抜けるような騒ぎ。
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門倉は門倉金属の社長である。年はあと厄の四十三だが、あと厄どころかこのところアルマイトの流行に乗って急激にふくれ上り、社員も三百人を越して景気がいい。新聞は軍縮軍縮と騒いでいるが、支那も欧州もキナ臭いし、軍需景気はこれからというのが大方の見通しらしい。
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四十代を迎える二人は親たちの言い付けを聞き、毎年このころ厄払い祈願の参拝に出かけた。満年齢と数えの旧年齢の両方を基準に前厄、本厄、後厄と丁寧に願を掛け、厄除けの護符をもらい、翌年その札を収めるとすると、つまりは毎年通うことになる。
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初老の厄年を迎えた衆が「白丁」と呼ばれる白い衣装に身を包み、神輿を担いで町内を練り歩く。神輿渡御の二日間のうち、一日目を前厄、二日目を後厄の人々で白丁衆を担うことが通例となっている。祭り初日、前厄の白丁衆が担ぐ神輿は神社境内を出発し、通称男段と呼ばれる表参道急階段を降り、鶴来南地区の各御祓い所にて神事を行う。
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三河町一丁目の大元締、溝口屋鐘五郎の家は、その晩割れ返るやうな賑ひでした。親分の鐘五郎は四十三歳、後厄の大事な誕生日を迎へた上、新に大々名二軒の出入りを許されて、押しも押されもせぬ、江戸一番の人入稼業になつた心祝ひの酒盛だつたのです。集つた子分は三十八人、店から奧へ三間ほど打つこ拔いて、底の拔けるやうな騷ぎ。
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屋根にはこれまで通り鳩が飾られている。神輿は数え年で25歳、42歳、61歳の厄年、42歳前後の前厄・後厄の男達が年齢ごとに会名を付けた4つの会に分かれ、1基の大神輿を各会が交代に担ぐ。
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おれ、あと厄だぞ。